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EOからの手紙4・出会いの瞬間

平成5年11月、私が出した最初の手紙への返事。
感熱紙に打ち出されたもので、至る所に手書きの修正が入っている。
書き足された部分は、断り無く追加してある。
傍点は、< >で括ってある。
下線が引かれた部分は、太字にしてある。

浅田幽雪samaへ

初のお手紙いただきました。

いまだ、あなたの手紙の封を切らないまま、これを打ち始めました。
どこの師であれ、きっと、こう言うでしょう。
『悟り、それはなんでもないことだ。なんでもない。
まったくあまりにもなんでもない。ぜんぜん、なんでもない。
ただ、なんでもなさすぎて、それがちと、困った問題かもしれぬな・・』

この見解に関しては、わたくしが何かを付け加える問題はありません。
もしも、大騒ぎしたり、悟りは凄いんだなどとのたまうどこかの僧侶、師家がいたらば、真っ先に私は毒舌を打ち込みます。場合によっては、出向きます。
しかし、問題は悟りの当たり前さにあるのではないのです。
老師、祖師は、言われる。『悟りは、平常そのもの』
私もそこまではいい。そこまでは、いい。
しかし、次の言葉がある。それは、こうです。
『悟りはなんでもない。しかし、、、
迷いはとんでもない。迷いは凄すぎる。迷いは大騒ぎすべき地球の大問題だ。』

それが、私の文書のすべてです。
悟りについてのどうのこうの、こうしたものは、いくら書いても、下手に人の心を迷わしかねないし、また問答などしたり、あなたたちを小話で、笑わせても、それは、それだけのものでしかない。問題は、悟りの方の描写ではなく、
迷いがどれほど厄介なものかから始めるのです。
ところが、このやり方をやる禅師は、私は聞いたことがない。
禅は、すぐ座れ、問うな、座れ・・・である。
しかし、何が根深く、人々を苦しめているのかを実例を使って暴露するという作業がなければ、本当に、深く道を歩く決意はできません。
それは、世俗のあらゆる善悪基準は、生命そのものには、まったく効力がないという絶望からのスタートです。
だから、私は、読者や門下に言う。
何をやっても、絶対に駄目になるよ、
絶対に最後は、駄目になる。うまくいくなんていうことが、一番だめなんだ。
そして、法以外、もう多分、これ以上の地球の混乱を調停するものはないだろう。
しかし、法の方便に入る前に、
あなたたちは、十分に「法がないと」どのように、愚かになってゆくかを私の観察を通じて、よく考えて下さい。それは耳が痛い話だと思う。
そして、私は単に世間ばかりを罵倒しない。
私は、僧侶、師でさえも、そこに人を根本的に苦しめる結果になる方便があれば、それを打ちますよ。礼儀は法には必要ない。法は人の世の人情や礼節のためのものではない。
法は法のものだ。

そして、率直に書くことにした。
10人に9人は、私からの郵送を拒否した。
私は、『受け取り拒否』と書けば、即刻郵送を止めますからどうぞ、自由にして下さい、と彼らに言った。
そして、この2ヶ月に、受け取り拒否は30中4件、、
そして残りは、黙殺、または、傍観者です。
その中で、Kさんや、あなたのような方が、とにかく、何かをこの青年に投げて来る。それはなんでもいいのです。批判も結構、そしりも結構。意見も結構。とにかく何かをあなたたちが投げ返せば、私は『そこ』から始める。
私はいつも、心に、なんの用意もない。
あなたの投げたものに当たってみてから、すべては始まる。
さて、そこで、あなたのお手紙を開封しましょう。・・・・

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さて、あなたが、最初から対立しないで下さい、という場合の
対立とはなんだろう??。

これはね、、私の行為のすべては、全面的な調和の方便(プロセス)ですから。
私は、対立しているような方便を徹底的にいつでも使います。それは、おいおい文書を読まれれば、私の手口は読めてしまうと思いますけど。
まず、私は、必ず、誰であれ、無礼なほど<そしり>ます。
そして、行間と結語に、<敬意>を満載します。
私が、ほんとうに軽視した場合は、悲しいかな、私は、いつでも、「さようなら」と言わねばならない。K氏の関連のサニヤシンという人達にも、のっけに私はそしる。
問題は、その次の反応パターンなのです。
そこから、私は次を始める。
もしも、「撹乱から調和への方便」としてとらず、ただの対立ということで受け取る場合、
私は、それから、あと2,3回は手紙を出し、断絶してしまう。
どんな、寺、どんな組織、あるいは伝統も、祖師を敬う。しかし
私の祖師は、死だった。
私の師は、歩くときに目にする枯木だった。この季節の紅葉、カラスの声、なにもかもがいつでも祖師であり、また、それはもう恩が終わったのではなく、
いまも、続いている。
そして、彼らに対する私のせっいいっぱいの敬意は、
敬意なぞを払う暇があったら、今にいることだ。
敬意はあくまでも人間のすること。人間の習慣、心、なんと呼ぼうが、
それは人間にしか通用しないものだ。
だから、私はどんなに他人に言われても無礼のまま死にたい。
死には礼儀はありません。挨拶もない。
それは、ただ、やってくる。
ということは、生もまたそうだということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幽雪さん、、大丈夫、、
これはゲームだ。戯れだよ。
とてつもない、戯れ。
そして、悟りなど、ほんとうに小さなことだ。
しかし、私達は本当に小さいのだから、
その小さな私達を満たしてくれる悟りも、ちっちゃくて、ちっちゃくて、
それでいいではないか。
私は、とっても小さい悟りでいい。
私に大悟なんて、言葉は不要だ。
なぜならば、
私の胃袋は、とっても小さいからだ。一日一回の夜の食事を口しては笑い、夜、枕に顔をうずめただけで、ニコニコと歓喜してしまう。
だから、きっと、私はただの馬鹿に違いない。

小悟でもいい、私は満腹で死んでゆける。

あなたの言う深い真の法脈ではなく、世俗禅の言う法脈に対して、言うべきことは、私からはこんな言葉です。
たしか趙州さんが、たまに言うんですかね。
『あんた、この上、、さらに何が不満なのだ(何をきらうのだ?)??』
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さて、もう少し、だけ書きましょうか。たとえば、
馬鹿になれと頭をふんずかまれて、さて、あなたは頭を忘れられるだろうか?。
ふんずかまえたら、よけいに頭を意識してしまう。
口を閉じろと言われて、もしも口を殴ったら、よけいに口を意識してしまう。
殺す場所は、決して打ったり、痛めたりしてはならない。
それが私の方便です。
痛みは、一瞬でも、他人に肉体へのこだわりを持たせてしまう。しかし、
悟りの中にあっては、むろん肉体を忘れてはいません。
普通に肉体で労働し、歩きます。
しかし、決定的に、そこに距離があるのです。
禅は、それを<なりきれ>、と言いますが、
躊躇した迷いの距離とは全然別の距離が、主人公と行為、行為や肉体との間にあります。
うーむ。ちょっとわかりにくいですね。
もう一度説明です。
私は、***をなくせ、という場合に、そこをたたかない。
そこを引っ張らない。もっと、恐ろしい無くし方があるからだ。
それは、虚無、無感覚です。
どんなに手を労して<ぶつ>よりも恐ろしいのは、感覚そのものの消滅です
これとは異なり、師が棒などで打てば、あなたは、存在、あるいは、いまここを思い出す。それもいい。その方便は、私も使う。
しかし、もっとも恐ろしいのは、あなたの言う死が我々を打つ場合だ。
それは、音もない。姿もない。そして、感覚もない。(死の肉体の苦痛は生の世界のことにすぎない)
いまここになりきる世界も作務もない。
いま、ここにあなたをそこで、つなぎとめる、外部の行為も座禅もない。
痛みはまだ生きている証拠だ。
だから、殴るというのは、わがままな子供にとって、いまでも効力のあることです。
『生きること』に向かわせる方便だ。それは生命の実感の損失をピシャリと痛みで<思い出させる>。
しかし、そこまでだ。
そのあと、半分の世界を私は受け持っている。
何も気配もなく、あなたを襲う、死の気配だ。
それは、肉体の死より恐ろしい。
死ねば、楽になる、と人は言う。
しかし、死ねないままの、途方もない虚無というものがある。
生殺しである。それも、まるで永遠に続くような。
死を売り物にするという言葉には、人は、いろいろな反応がある。
はったり、、おどし、、実際にはそれほどでもあるまい、、
いや、本当に心を殺されるのか??。と、憶測が飛ぶ。
K氏、さて、どこまで死人禅が進んだか、いや、進んだというより、<停止点>に引き戻されたか、ですが、
彼は、そろそろ死がなんであるか、理解し始める。
本当は、死ぬことなど、人間はけっして恐れていない。
人がもっとも恐れるものは、
死ぬことではなく、
死んだようなままで、それでも生きなければならない場合だ。
違うかな、幽雪さん。
あなたは寺で、修行され、生き生きと、今ということが、静かな充足をもたらすことを会得されている。それはそれでいい。それは、まったくそれでいい。
しかし、そのあなたが、もう一度、人生のどん底に落ちないという保証はなにひとつない。そのどん底の底辺は、ほんとうのただ者、石や草にすら劣る、ただ者になることだ。そこが安息点になるまでには、
人は、俗だの僧侶だの、禅だの方便だの、いずれ、全部丸裸にならねばならない。
その手前は、私の知る限りですが、
禅の世界にはない。少なくとも、私の知るかぎりでは。
というのも、そこには、完全な無力化、蓄積や経験の破壊、記憶の損失、師だの、なんだの、礼儀だの、人間だの、なにもかも、本当に失う地点があるからです。

もう、完全な、「ダメだ」の状態です。一切の希望もない。なにもない。絶望がなんであるかすら、忘れてしまう。
大悟した者たちの直前の状態というのを、あまり日本の禅では記録されていないようですね。インドにもあまり資料はありません。しかし一部ではよく知られたことですが、その大悟の直前は、ほとんど完全な狂人、白痴状態です。
おそらく、禅寺でなかったら、そのまま精神病院行きですよ。
それは360度、どこから見ても、完全に狂っている。完全に自己喪失している。
そこに、なにも、残っていない。
実は、この衝撃は、あまりにも強くて、死ぬケースがかなりある。
大悟の後で、何年も生き延びるには、いくつかの策略が必要になる。
そのひとつは、なんとか「わからずやの弟子」を持ち、延命の需要を作り出すこと。
というのも、大悟の者には、自分で生きようとする根本欲が落ちている。
彼らは、ひょっこり、そこらで、あっけなく死んでしまう。
縁か、因縁か、なにかがないかぎり、彼らは業というものの中にいないので、
どこでも、いつでも、消えてしまう。
しかし、この大悟には、かなり、きわどい狂乱、発狂、呆然自失の状態があり、これは脳の生理的な機能に支障をきたすことは、あまり知られていない。
この件に関してだけは、インドのバグワンは実によく、しゃべった。
それは、本当にきわどい。死ぬ覚悟がいる、という次元ではなく、
本当に、心が死んでしまうわけです。肉体にもその影響は出ます。
ちゃんと普通に生活するのに、私は6ヶ月くらいかかったような気がする。
何かが、完全になくなっている。
何かはよくわからないのですが、何かがある、、というより、
なにかが、なくなってしまった。そして、どこにもない。
まったく、その日以前と、その日以後の日々はまるで違う。
ひどく、不適切な言い方かもしれませんが、私は、その瞬間から、
迷えないほど馬鹿になってしまった。日常の仕事ですら、悩めなくなっている。

これは、たぶん、私には、当たり前の知恵すらもなくなったのかもしれない。
そして一方、どこへ行っても、立っても、座っても、便所でも、そしてさらには、熟睡しているのに、『これ』以外になにもない。
熟睡しているのに、存在性が、失われない。
こんなことは、33年生きて来て、一度もなかった。
私は、なにかが、変になってしまったようだ。
さて、一方、そんな衝撃を通過しなくても、さりげなく、悟る場合もむろんあります。しかし、そうでないケースがはるかに多い。

さてさて、初回ですから、あまり長く書くのもやめますが、
最後に留意点の問題です。
案の定というか、当然禅の世界から出て来るであろうと予測される言葉があなたからも帰ってきたので、再度、理論的な問題に入ります。

何度も、何度も、何度も、私はその日以後、何が方便になるかを探して禅のようにもやってみた。成り切るということも、ただ今、ということも。
禅師は、とうぜん
『何??脳天??。どこだろうが、道になるんだ、足元でも見てろ』
と私に言うのは、目に見えている。
そんな言葉は、見え過ぎる。
しかし、この言葉を、あなたたちの仏教のそもそも発生地のインドで聞いたら、
インドの導師は言うだろう。
『足もと、手、肉体、に溶け込む。よろしい。結構。仏法は肉体を否定しない。この世の当たり前の中にこそある。ただし、
ジャパニーズよ。
インドの生命体の医学的学問を無視してはならない。
人は死ぬとき、禅のいうような簡単なプロセスで、「はい死んだ」で終わるものではない。これは理屈ではない。
死の瞬間に脳天から人は溶解して揮発する。
そこは、生死の扉だ。
もしも生きている間にその通路を空けておかなかったら、いざ、死ぬ時に、
膨大な執着が生まれる。そして、この脳天は、ただの留意点ではない。
禅が言う、今、ここに在るためならば、それは手であろうが、腹だろうが、指一本でもいい。しかし、脳天(ブラフマ・ランドラ)は
ただの留意のためではないのだ。
チベットのタントラでも、やっている事に、24時間全身全霊の注意を向ける行はある。
そういうものは、イスラムでもどこでも同じだ。いま、ここにいるためなら、セックスだって道として使える。
しかし、それでもなぜ脳天が重視されるかは、
ここは、死ぬときの通過点だからだ。
ということは、そこに生死のすべての<境界線>がある。
これは、象徴や神話ではない。インドや中国に固有の医学的なものだ。』
さて、インド人には、ひっこんでもらって、EOの注釈です。

脳天のそこだけが、あなたの知りたい死の直面に関連する中枢だ。
というのも、死ぬときには、肉体は麻痺してゆく。
あなたのいま、ここにいるという頼りの五体の感覚は消滅する。
脚下などを見ようにも目も開かない。
しかし、死ぬときに、あなたは、この脳天に向かって、意識が引き上げられる。
それ以外の場所では決してない。
肉体の機能や感覚の全部が停止すると、
意識は、確実にこの脳天に向かう。そして、多くの場合、、
残念なことに、多くの場合、
恐怖と執着で、この脳天からでなく、眉間から揮発してゆく。(幽雪注;ここに巻頭のイラストが描き込まれている。)
脳天に吸い込まれるのは、暗黒へ向かう恐怖、完全に消えるという恐怖をともなう。だから、死人禅門下には、私は、これは死ぬ練習だ、と言う。
もしも、ひっかかったら、あなたは眉間に意識が留意する。
ちょっと、観察してみてくださいね。
あなたは、悩むとき、ミケンにしわを寄せませんか?。
あなたの意識が解放されていないときは、思索したり、混乱するときは、
必ずあなたの意識は眉間に集中してゆく。
これが激痛を伴うほど死ぬ瞬間にやってくる。
もしも脳天が開いていれば、いいが、そうでなければ、あなたの全人生の集約、すべてが、死ぬときに、爆発する。その最後の瞬間は、
普通に生きていたら、経験出来ない。いつも、死はあなたの予測でしかない。

さて、なぜ、それが私の方便、瞑想法に組み込まれたかですが、
その、手放し、まったくの手放し、まったくの無力である自分に落ち着いているということが、死へのひとつの姿勢であるからです。
死ぬときには死しかない。方便としての、行為も感覚もない。
だから、死に慣れてしまうことだ。いつも、心が死んでしまうこと。
心が、本当に死んだら、禅などという言葉すら、あなたは忘れる。
私が禅という言葉を使うとき、私は禅から部外者として使う。
もしも、あなたたちが、禅や悟りという用語を私に使うなと言えば、私は、別の言葉を使ってもいい。サンスクリット、あるいはアラビア語、、ユダヤ語、
ようは、用語でもなく、伝統でもない。
『それ』には、どんな伝統もない。
私は禅に属していない。
また、インドにも属していない。理由はいたって簡単だ。
一本の草は、何にも属していないからです。
祖師への敬意など、、いま、ここには、それは存在しようがない。
しかし、それは軽蔑が存在しているということではない。
そこには、敬意も、軽蔑もない。
だから、それこそが、本当の敬意であり、
師への敬意だけにとどまらず、それが生命全部、万物への敬意です。
それは、形式による会釈ではない。
あなたは、もしもその意識につつまれたら、
存在のあまりの有り難さに、歩いていて、突然に地面に頭をついてしまうだろう。
それは、なんの理由もない。
なんの教えによるものでもない。
誰から言われたからでもない。
あなたは、とつぜんに、ある日、動物や植物に、心から礼拝しはじめる。
あたり一面、なにもかも、光明なのだ。これは催眠でも、夢でもない。
そして、なぜ、、あなたは礼拝しているのか、まったく分からない。
ただ、ただ、そうせずにいられなくなる。
私の知っている、悟りとは、こういうものです。
これが、妄想であり、悟りでないと禅のみなさんがいうならば、
私は、その妄想と、一生を過ごすつもりである。

  1993 11/17 EO

おまけでございます。

特別出演、熊谷寺の師家曰く

師「たのむから、うちの門下をひっかきまわさないでくれ。
椀に米いれたり、弟子に怒鳴ったり、
一問しかけたり、一句入れたりしないでくれ。
静かに托鉢させてやってくれ。」

EO『お前の弟子どもは、カーネルサンダースか!!??。
乞食ぶっただけの、椀を持ったフライドチキンか??。
立ち姿だけで、ほれぼれするような門下だけを托鉢に出せ。
さもないと、私はむやみに手足や棒打ちは、出さないが、
法糸を束ねて、あんたの門下の首を吊ってやる。』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

師「あんたのやりかたは、ちと無礼で、手荒くすぎないかね?。」

EO『同じことを、雲仙岳へ行って山に向かって言ってみろ。ロバめ!』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

師「あんたのは、それでも禅なのか?」

EOは師にミカンをほうり投げた。

『そら、これだ』
************************11/17・EO

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