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EOからの手紙19・マッチ売りの少女

1994 2/2 明け方 4:00きっかり。

寒いなぁー。月が青白く、風が鳴っている。
こんな夜は家のない路上の人達をいつも思い出す。
僕は、のうのうとコタツでこんなものを書いている。
肉体の飢えや寒さや苦痛にくらべたら、
僕らの苦悩なんて、本当はなんでもありはしないのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
手が止まってしまって、
30分そのまま座っていて、電気を消して、、、横になった。
また、むっくり起き上がって時計を見たら、
・・・の前の行から1時間たってしまった。
コーヒーを入れて、また打ち始めた。

「マッチ売りの少女」の提唱をしようかと思ったが、
そのとたんに寝てしまった。

朝起きたら、少林窟へ行った夢を見た。実に縁起の悪い夢だ。
寺は標高約180メートルあたりにある。繁華街の細い路地をタクシーで行く。
老師以外に2人が出迎えている。家族なのか弟子なのかわからん。
下車すると、「こいつ、言いたいことばかり、言いおって」と老師がつっかかってきたが、私は老師はほっぽっておいて、下車するなり、近くにいた猫のタウに駆け寄った。

タウとは一緒に地べたへ寝転んで、「ニクキュウ」を触ってじゃれた。
タウは嬉しそうにゴロゴロと鳴いた。
白黒の猫の筈だが、途中からトラネコのように色が変わった。
タウを最初に見て、すぐに分かったことがある。
それはこのネコは人間の言葉を理解しているということだった。
ただの合図としての言葉ではなく、言葉の「意味」を理解している。このネコは猫ではなく、意識がほとんど人間に近い。私がそれを感知しているのを彼もすぐに分かったようである。
さて、横にやたらと長い階段か玄関のようなところを上がっていく。
老尼の亡霊の気配を感じるところで目が覚めた。
小さな妙に現代的なホログラムの絵画のようなものに目が引かれた。
朝っぱらから、実に、くだらん夢だ。
*********・・・・・・・・・
唐突だが、今日限り、
私は禅の世界の用語を、一切離れることにした。
ちょっとした話題にするのはいいとしても、主軸にするのは、もう、うんざりだ。
禅師のエゴ、そこの行法のでたらめさ、師家の程度の低さ。そういうものにもうんざりだが、何より、そこは人の本当の幸福とはあまりにも掛け離れている。
そこにあるものは、本当に人々が欲しているものではない。
そこに、いかなる形であれ、人間的な動機に基づく『努力』があるかぎり、
それを「無努力になるために必要な修行」と呼ぼうが何と言おうが、
それは真言密教も禅宗も全く同じく、『貪欲な修行』である。
だから、その半端な到達点もまた、たいして変わらない。
一見すれば、この2つは小乗と大乗ほどの違いがありそうに見えて、
実はどっちも外道である。
私に言わせれば、寺あり、袈裟あり、法事あり、修行課題ありでは、どこであれ
そこは小乗である。
真の大乗とは、『人生から体半分を棺桶に入ること』以外にない。
少なくとも、片足ぐらいは棺桶に突っ込まねば、大乗ではない。
だから、『マッチ売りの少女』が死ぬ間際を提唱の題材にしようとしたのだが、
朝になったら、とんとその要点を忘れてしまった。

「ツバメと王子」という童話もあって、それは確か、銅像の王子とツバメが仲良くなって、銅像の王子の指示で、ツバメが銅像の体に埋め込まれている宝石や、全身の金箔を剥がして、町の貧しい人に届けるという話。
最後は朝になって人々に『汚い銅像だわ』と言われて、金箔のなくなった銅像の王子とその横に力尽きて死んでいるツバメがゴミとして捨てられるという終わりである。
この話の場合、まだしも『世間への御奉仕』とやらで悲惨な結末の理屈がつくものの、マッチ売りの少女には、『一点の救いもない』ところがミソである。
誰の役にも立たず、誰にも知られず、飢えて、こごえて、ただ最後のマッチで
母親の幻影を見て死ぬ。その後、天国へ行ったかどうかなど知ったことではないが、
仮に行ったとしても、まったく救いのない話だ。
それ故に、『マッチ売りの少女』の話は、大人になっても人の心にどこか残っている。
「いい話」でもなければ「おもしろい話」でもなく
ただ徹底的に『哀れな話』だからだ。
『でも最後は天国へ行ったのよ』なぞと言われて『それならば、よかったね』と納得する子供などは、ただの一人もいないのである。アホなクリスチャン以外には・・。
これがマッチもなく、凍傷でただ苦しみながら死んだとしたら、
童話にすらならなかっただろう。

ところが、このマッチという中に現れる食べ物の幻影のはかなさ、
暖かさの幻影の空しさ、最後の母親の幻影までもが嘘であることが、
よりいっそう『何かの力』をリアルにしている。

この少女が見たものは幻影だからといって、
それは不幸せだったり、偽物だったり、幸福ではない、間違いだと、そういうことを他人が言えるのだろうか?。
ここに私の宗教、EOの法がある。
『一人の人間が死ぬ時に限れば、本人が幸せならば、幻影も嘘も結構だ。
それで、せめて、しあわせならば』

・・・・・・・・・
ところが、死がそこにないと、こういうことが起きてくる。
もしもこの少女が翌朝、生きて発見されて、
病院に行ったら、そこでマッチをすって、『あっ、おかあさんがいる』とか言うと、
その時点で、この少女は「精神病院」に転送される。
偽物、本物というものは、社会の中で、他人との関係性でしか発生しない。
その少女が幻影というものを持ったまま死ねば、誰も何も言わないのに、
生きていると、彼女はただの気違いと呼ばれてしまう。

だが、私から見れば世間は『生きたマッチ売りの少女』に溢れている。
一瞬の幸福の幻影のために物欲、知識欲、虚栄、性欲、修行、悟り、などに火を付ける。
火がついてればいいが、消えるとまたつける。マッチがなくなるまでそうやっている。
しかも、お互いに違う幻影を炎の中に見ているし、自分が見ている幻影で口論までしているから、まさに世界中が60億のマッチで年中無休の大火災になっている。

幻影というマッチの炎は、まったくアルコールやドラッグと同じである。
マッチ売りの少女は死んだから問題なくても、
あなたたちは、生きたマッチ売りの少女だ。
だから、私はここは60億の気違いの群れだと言う。

だが、私は『最後の1本のマッチ』をあなたたちにあげたい。
それだけは、最後までとっておくといい。
私の作業は、あなたに最後の一本のマッチの為の精神を作らせることだ。
そして死ぬ時がきたら、それを擦るといい。
だが、それまでは、幻影など求めては駄目だ。
あなたのマッチはただ一本だ。
それは死ぬときだけ擦られる。
そしてその炎のその幻影だけは、私は許す。

そして、その幻影は、あなたの『足りない願望を映し出す炎』じゃない。
そのマッチはあなたの願望を映すものじゃない。
それはあなたを、『あとかたもなく焼き払うための』最後のマッチだ。
だから、私は生きている間のあなたに『ガソリン』を塗ってゆく。
そして最後のマッチだけ手渡しておく。
あなたを燃えやすい状態にしておこう。

ちょっとした飛火であなたが死ぬように、油をぬったくっておく。
最後のマッチは、あなたの死そのものだ。
それが死人禅である。
それはあなたを、死にやすくしておくものだ。

死ぬ時には、最後のサマーディ以外のことが起きてはならない。
生きている間ならば、小悟りやら大悟で切り抜けられても、死ぬときだけは、
完全にその大悟も法も消滅しなければならない。

もしも生きている間に、その死の間際へ何度もいけば、
あなたは、結局は『どんなものも残らない事』を実感として痛感する。
そうなったら、あなたは工夫や悟りなども、必死になって持ち歩く必要はなくなる。
そんなものは「生きた亡霊ども」に持たせておけ。

あなたは、片足棺桶に突っ込んで、
死者として世界を眺めて楽しめばいい
その方が、よほど楽しめるというものだ。
なんであれ、あなたの意識は生に参加してはならない
死だけが、死人だけが、全くの『裸目で』世界を眺めることができる。

大悟の者の目には特徴がある。
じっとしているとき、その目はまるで死人か、あき盲のようである。
何かを見るとき、その目は白痴か狂人のように、どんよりと、ゆったりとしている。
というのも、彼は見るのではなく、「見えて来る」のに任せているからだ。
また、その目は、誰かを見据える時には、獲物を狙う虎の目のようになる。
そして理由もなく笑うと、その目は赤ん坊のようである。
そして普通にしているとき、その目は、まったく普通である。
*********
突然にマッチ売りの少女の話が脱線したので、次の話。

嘘八百のミス・ディレクション

EOが『行法』と言うときと「工夫」と言う時は注意しなさい。
彼が言う『行法』は、そのまま続けていい。
『闇の観想』や『頭頂や頭上留意』や『視覚を弛緩させる歩行禅や足の親指に目で留意する歩行』や『茶碗乗せ経行』だ。
だが、彼が『工夫』と言ったら、それは全部<嘘>だ。

最近、彼は「3つの工夫」に関して書いた。だが、彼は最初から
『いかなる工夫も悟ろうとする貪欲の仕業である』と言ったはずだ。
だから、もしもあの3つの工夫
『意識を見詰める//質問の反芻//{さぁー?}』の原稿をみて、
よし、やってみよう、などと思い立ったらば、あなたは落第である。

彼はいままで、本当のことばかり書いて来た。
そこで、仕上げに最後に絶対に本当に見える『大嘘』を書いてみた。
この『ある弟子の一瞥の瞬間』の原稿がもしも、
寸分の狂いもなく全部が嘘だと分からねば、門下も師家も、笑われ者である。

もしも、試しにあの工夫をやってしまったとしたら、やったあなたの<動機を>振り返ってみなさい。それはちょっとした実験のつもりかもしれないが、なんであれ、あなたがあれをやったとしたら、あなたは現状の自分の心境に不満があるということだ。
不満があるから、「これならなんとかなるかも」、と工夫をしたわけだ。
あれらの工夫は、やってみると『ちょっとだけうまく行ってしまう』。
ところが、あの工夫はあなたを悟りに誘導するためではなく、
迷いの足りない者をもっと苦しみのどん底へ突き落とすためのものだ。
やればやるほど、あなたは、「むなしく」なる。

「疑問を反芻すると」ちょっとだけ苦悩が軽減されたように感じるだけで、
ちっとも根本的にあなたは変わらず、
「意識そのものを見詰めると」ちょっとだけ、目覚めてただ在るように錯覚する。
意識を<維持>してみると空白になるという公案は正しいが
意識を<見詰めようと自覚>する工夫は、まったくの嘘である。
そして「さぁー?」と言う工夫も、その時だけは、ちょっとだけふっきれたように思う。
そして、よし、これなら万事うまく行くとあなたは思う。
そして、あなたは途方もなく、空しくなる。それらは決して長く続かない。
そしてまったく成長しない。

このように、私の『行法』は、あなたを『満たす』方向へゆくものだ。
一方、私の言う「工夫」は『あなたに理解や会得をもたらしたと錯覚させて、実は余計に重荷を背負わせる』ものである。
それがあの3つの工夫の本当の目的だった。
あの3つの工夫は、軽くなったように錯覚するだけで、あなたはまったく『満たされる』ことがない。満たされないから、余計にあなたはあの工夫で苦しむ。
苦しめば、始めて何が本当に必要かを、あなたは理解するからだ。
そして、その本当の必要なものはEOが、これまでに繰り返し
『行法』として書いたものである。
だから、彼が「工夫」と言ったら、全部『ひっかけ』である。
悟ろうとする欲望がある者ほど、「工夫」にいとも簡単にひっかかる。
一方、無欲な者は、そういう「工夫」は、ちょっと見ただけで嘘だと分かるし、
ちょっとだけやれば、とたんに全然着眼点が違うと分かる。

だが、今後は、私は<行法>なのに<工夫>と言ってみたり、<工夫>にすぎないものを<行法>と言ってみたり、めちゃくちゃにしてゆくつもりだ。
ただし、これは別に試験ではないし点検でもない。
ただ、あなたの本性は、確実にそれを読み分けて行くから、
答えはあなたの本性が知っている。
そういう真偽が混沌とした素材を読みこなす機会というものを
私が作り上げてみようと思う。ただし、これは「<知的な>間違い指摘(さがし)」のゲームではない。
あなたが正しく死人禅の『行法』に従事していれば、本性はちゃんとそれを読み分けてゆくものである。そうなったら、あなたは世間にある別の本の中にも真偽を確実に嗅ぎ分けてゆく

ある著作物や導師の言葉の一部を真実だと思うと、あなたたちは、その全部が真実だとすぐに思い込むとんでもない悪癖がある。
そういう思考の暴走を警告するためにも、私は今後は大嘘を混ぜることにした。

先日の『ある弟子の一瞥の瞬間』の原稿では、いかにもあの着眼点こそ正しくて、それによって弟子が本当の一瞥の悟りをしたように演出されている。
ただし、その前の原稿で描かれた「下山する寺の弟子の物語」は真実である。
ああいう事は、起き得るものだ。そしてあの弟子が最後に『さぁー?』と言うとき、
それは彼の本当の悟りから出て来る言葉だ。
しかしそれを『模倣してみよう』では何にもならない。
常に、こういう工夫や方便は一人だけの為のものだ。他人の工夫をまねしてはならない。
だから、「あなたもやればできる」と称する「3つの工夫」は完全な嘘である。

かなり多くの者があれにひっかかる筈だ。まるでそれは本当のように聞こえるからだ。
そのまるで本当に見えるものを嘘だと分かるのは、本物を知っている者だけである。

私がマジックの趣味があることは門下が3人ほど知っている。
マジックの基本は「ミス・ディレクション」と呼ばれる。それは観客に起きてもいないことを起きたと思い込ませる心理的、あるいは技巧的な技術である。
あるいはとっくに、トリックは完了しているのに「まさに、今から始まるように」思わせる錯覚などである。今回それを文書に導入したわけである。
だから、あの原稿は、ある意味では師家の判定のためのものである。
また門下も、もしもあの、大嘘の3つの工夫などを、今そこでやっていたとしたら、
さっさと基礎の『死人禅行法』と『幽暗行』の『行法』に戻るべし

「これは大切な、着眼の工夫である」と聞いて、「どれどれ」と私の原稿を読んだ者は
私に『ほら、よーくこのカードを確認して下さいね』と言われて、
その時点でもうすでに騙されている観客と全く同じなのである。

以後、私は、原稿の随所にこうしたトリックを仕掛けることにした。
それは見慣れたというだけでは、つまり、EO氏の文章を読み慣れたというだけでは、
決して見抜けない。それを見抜けるのは、

あなたが『それ』である場合だけである。


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