悩み事

私には悩み事があります。と申しましても、私にはそれを話す気はさらさらありません。

「私には悩み事があるのです」とさるお方に申し上げた所、その方は私の悩み事を聞く前に、私の悩み事を断定して、その方の中で、解決を述べてしまったからです。その時ふと思ったのが「悩み事」と云うモノが持つ不確かさに付いてです。それは勝手に憶測を進めて単一の解へ導けるものなのでしょうか?結論ありきの議論に〈悩み事〉に付いて考える余地はあるのでしょうか?

結局は話すら聞かれない、と云う状況が寧ろ悩ましいと思われます。

私の悩み事は大きくも小さくもないのですが、或る種の方々にはそれが単一の解を持つ普遍的で有り触れたものに見えるのかも知れません。故に、悩み事は決して打ち明けられず、答えられる問答だけが繰り返されるのでしょう。

私は悩み事に姿を与える事を一つの呪いだと感じました。其処で答えられるあらゆる解が、結局は悩み事を生み出すのです。であるなら悩み事は謎へと変貌してしまうのではないでしょうか?

答えを出したがる時代、と勘違いされるかも知れませんが、もう何年も謎を生きる時代である事を私達は知っています。でも、「悩み事」と聞くとどうしても解決を提出したい人が沢山いらっしゃるのですね。

悩み事に応えてしまう、云い切ってしまう、それが結局はその先何も考えない事である事を、私は何処かしらで感じていました。今回の件でそう云う方が沈黙を強いる問題がこれからも長らく続くのだと痛感致しました。

私は真実やら真理やらにとても無関心です。ですがそれを伝えるのに必要なボキャブラリー、つまり〈事実、真実、真理、表象〉の違いを共有出来ません。雄弁な方々はそれを聞く前に自分の意見で話題を包括したがるのです。

誰かが自殺したら、それは事実です。自殺した真相、つまり真実は明かされません。其処に真理などないでしょう。そして、表象のみがメタファーとして問われ続けます。

ですが、エラーの問題が〈答える人〉にあると云う考え方は私の好みではありません。ですから、悩み事と云う言葉を出した私にエラーがあるのです。話す相手を間違えると云うのはそれ自体が問題なのでしょう。

沢山の意見があります。ですが、それは表せる意見が妥当な背景を持って云い放つ奇跡です。取り立てて背景のない意見や疑問は排除されるでしょう。

そうやって絞め殺される方々がどれほどいるのでしょう?

ですが、私は云いません。そして、云わない人々の気持ちがわかります。それは隠秘される諸々の諸事情なのです。

宜しければサポートお願いします。