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幽麗都市シンジュクとうるわしの異邦人  第一話カミ泥棒と永遠の夜

 切り付ける様な冷徹な雨が動き回る亡者を打ち付けた。染み着いた清潔な影だけが水面を這い、四肢を重くする倦怠感は原罪や面倒な前世の如く叩き付け、孤独の病原体は拡散して行く。冒険はとうに終わっていて天国への当選者は一人もいなかった。氷点下にならない様に淡く祈ったとしても永遠の極月は気紛れに雪を降らせる。気を狂わせる寒さ、人を食い荒らす寂しさ、表現出来る限度は失われる。何の為に歩くのだ、と問う声は、歩みを止めてうずくまり、深く沈んだとして、魂を蝕む、無感覚な踏み絵を蹴り上げる以上の慰めにならない。憐れみと同情を奪い合う雄叫びは消耗し、無表情にさせる凶暴さは人々のハラワタを打ち、バラバラの稲妻が、四方八方に体当たりして半狂乱な発狂を呼び止めるだけだ。高々と建てられた高層ビル群は蝋燭の様に明かりを灯し、永遠の夜を照らすが、その明りは心の揚力を減らし、一握りの抱擁をもたらさず点滅を続けるだけである。

 人混みの中一人の男が逃げていた。彼は黒いトンビを身に纏い、片手に傘を持ち、片手に紙の束を持っている。眼鏡を掛けていて、少年の様な面持ちであるが髪の毛に白いものが混じっていて、メガネの奥は鋭く冷たい瞳である。目の下には深いクマがあり、少し熱っぽく青白だ。彼はゆっくりとした足取りであるが確かに逃げていた。人の視線から逃げ、人の視野から逃げ、慎重に足を運んでいた。
 どれだけ想像力があっても心は満たされない、想像力で孤独感は癒せない、と彼は思った。他者の為に生きなさい、と云う人は他者と接するだけの共同体にあり、隣人を持ち、他者に何かをするだけの信頼関係を持つのだろう。兎に角、接点が無いと何も出来ない。逆に云えば、人が人に依存するとしたら生きる意味を他者だけに求めるからだろう。仕事や家族と云うものの外で出た時どれくらい孤独なのか依存する者は知っている。〈普通〉の外側へ出たアウトサイダーに向けられる〈普通〉の理性の冷酷さを僕等は痛い程思い知っている。依存する者も孤独だ。若者が生きる理由を失って自殺する、と多くの人は考えるだろう、だがどうだろうか?社会から追い出された人間にあるのは〈死なない理由〉を掘り続ける事では無いか。それが尽きる瞬間が来ないと云えるだろうか。逃げ場の無い孤独の先に付いて、人が追い付ける想像力は無い。
 彼は不意にその様に思い、足を運んだ。

 街は暗かった。すれ違う人々の間に接点は無く、互いが互いに関心を持つと云う発想も無い様だ。家から追い出された者も、仕事を失った者も、何かに絶望した者も、誰一人として他人を見ようとしない。異邦人の街であるのに異邦人とだけは係わらないと云う意志がある。或いは、余りに互いが互いを知り過ぎているからか、或いは、知らな過ぎているのか、いや、それすら判らないだろう。彼等は互いが何を知り、何を知らないのか見ようとしないのだ。

 例えば、何処かで誰かが寂しいと感じたとしよう、彼は思った。寂しさは判る、これだけ孤独な街なのだ、痛みは判る。だが、その一人を見付ける事が出来るだろうか?一人一人に聴いて回ると云うのか?例えば何処かにSOSを書いたとしよう、誰がそれを読むだろうか?それは往々にして無視されるメッセージだ。此処にはSОSがあり過ぎる、それに応えるリスクもある。一人で出来る事と云えば酒を飲むかタバコを吸うか、だが眠りは訪れない。たとえ一人でなくとも男に殴られる女は孤独か不幸で、孤独で不幸だろう。殴る男も孤独か不幸である筈だ。これだけ闇が広がっていると云うのに秘密は想像を絶しない。どの不幸も見慣れた姿をしている。

 高層ビル群をぬって降り注ぐ雨は、止む事無く、時々雪になる、極月から一歩も動ない季節に、冷たい風が叩き付けた。
 だが誰が永遠と知ったのだろう、誰一人として朝に辿り着いていないのではないか?彼はぼんやりと思った。
 橋が沢山あり、橋は建物と建物を繋いでいる。建物には沢山の明りがあるが、それは一向に温もりを伝えない。地上の建物の殆どに落書きがあり、落書きは落書きを上書きし、元のメッセージの原型を失わせている。数え切れない人々がその長い夜を歩いていた。
 彼は橋を渡り落書きの前を通り何者も目に止めず逃げ続けた。

 駅前の人混みは巨大な緊張感の塊だ、逃げている彼は、意を決してから、其処へ向った。白い息が湯気の如く立ち上り、人々は互いが互いを不愉快に思いながらも、概ね黙って歩いていた。その中何人か我慢出来ずに話し始めている者がいる。
 或る男は仕事を捜している様だ。
 「僕に仕事はありませんか?タダでも働きます」男は血眼で云っている。「何でもします、もう、何年も仕事に就いていません。僕は両親に、誰かの為に生きなさい、と云われて育ちました。誰かの為に生きてきました。でも、此の街に来てから誰の為にも生きていません。誰か僕を救って下さい」
 だが、男へ視線が注がれる事は無い。人々はスマートフォンを見ながら何処でも無い何処かへと歩いて行くのみである。
 同じ様に叫んでいる女がいた。
 「誰か私を愛して下さい。私はあなたを愛します。私は、誰かを愛せ、と云われ育ちました。愛する事が何よりもの喜びです。ですが、この街に来て誰にも愛されていません。そして、愛していません。誰か私を愛して下さい」
 然し、同じく、彼女に注がれる視線は一つとしてない。丸でそれが日常の出来事であるかの様に人々は去って行く。そして、それは実に日常的な事であった。

 逃げている彼にとって他人が目立つ事は好ましい事だ。だが、叫び声の憐れさと冷たくどす黒い感情に身を打たれた。
 頼むから黙ってくれ、お前には何も無い、僕等には既に何も無いのだ、彼は思った。
 彼は目前にある地下へと向かう下り階段へ向けて、ゆっくりと確実に逃げていた。だが、もう少しでその中へ逃げ込めると云う所で、誰かに背後から止められた。
 「お願いします。スマートフォンを貸して下さい」女性は云った。「どうしても電話を掛けなければならないのです」
 美しい女性だ、少女と云っても良い若さである。髪が長く、色白で色気がある。だが、その顔には何かしらの不穏さがあった。
 「通して下さい」彼は小さな声で云った。
 「いいえ通せません。スマホを貸して下さるまでは」
 「どうして僕があなたにスマホを貸さなければならないのですか?」彼は穏やかだが冷たく尋ねた。
 「それはお返しする際にお伝えします。兎に角、今は早く貸して下さい」
 「いいえ、理由も無くお願いを聞く事は出来ません」
 「いいでしょう。云います。云ったら貸して下さるのですね」
 「いえ、約束は出来ません」
 「いいえ、あなたからスマホをお借りします。お借りするからにはお話します。私は、私は神様にお電話しなければなりません!そして、タクシーを呼んで頂いてこの街から出なければなりません!」
 「この街から出てどうするのですか?」男は怪訝な顔をして尋ねた。いや、この返答は正しいのか?彼は思った、このリアクションで正しいのか?「大体、この街から出た後でどうやって僕にスマホを返すのですか?」
 「それは幾らでも方法があります」彼女は泣き叫ぶ様に云った、それが自明な事実である様に。
 「失礼します」彼は女性を押し退けて、地下へと歩いて行った。
 「人でなし!」背後で彼女は叫んだ。
 可哀想に、自分がヒージンである事を知らないのか、男は思った。いや、それは思い出さない方が良い事かも知れない、だが、何時か思い出してしまう、それを突き付ける役目はご免だ。
 彼が地下へと下り切った所に、白いコートを着た妙にギラギラとした瞳を持つ男が、如何にも愉快と云う様子でも無いのに笑顔で立っていた。
 「おい、ヒージン、後ろでヒージンのお仲間が叫んでいるぞ。いいのか?スマホを貸さなくて?」白いコートの男は云った。
 「知らない人です」彼は傘を畳んで、紙をコートに隠しながら云った。そして、あなたも知らない人だ、と彼は思った。
 「ヒージンって云うのはあれか?此処に来る前から狂っているのか?まあ、此処にいる奴らは早々に狂っちまうから、余り区別しても意味はないのだが、最初から狂っているとしたら、お前らには都合が云い事なのかも知れないな」白いコートの男は笑いながら云った。
 「ああ、ええ、まあ、そう云う事かも知れませんね。では、さようなら」
 「畜生、全然、話が噛み合わないな、これだからヒージンは…所で、噛み合わないと云えば、お前が持っている紙は何だ?ヒージンの癖に紙なんて持って、それで何をする心算だ?」
 「僕が紙を持っていて何かおかしいですか?」
 「盗んだな」白コートの男は急に無表情になり云った。
 「何の事でしょう」男は云った。
 「俺の主人の紙を盗んだな、このヒージン野郎!」白コートの男は両目が左右に分かれてしまいそうな剣幕で叫んだ。
 「紙なんて盗んでどうするのですか?」彼は何事も無かったかの様に云った。
 「知るか!」白コートの男は声で云った。「でも盗んだな」と思うと急に穏やかに微笑して尋ねた。
 「いいえ、盗んでいません」
 彼は一貫して無表情である、たとえこのやり取りが延々と続こうと態度を変えたり感情的になったりする様子が無い様に見える。其処には感情のドラマが無い様にすら見えた。
 「なら証明してやる」白コートの男は無表情になり、彼に近付いて来た。
 「宜しい」彼は云った。そして、急に声を張って大声で演説めいた演技で話し始めた。「こちらの紳士がスマートフォンを貸して下さるそうです。神様に繋がるスマートフォンです。これであなたもこの街から出られますね」
 「何を云う?」白コートの男は小さく云った。
 「こちらの方は神様をご存知です、とても親切な方です、あなたはこの寒い街から出て…」すると、階段の上から先程の女性が走って来た。彼女は半狂乱の喜び様である。そして、白コートの男に詰め寄った。
 「お願いします」彼女は云った。そして、離さないと云う意志からだろうか、白コートの襟を掴んだ。
 「離せ、離せこのヒージン女」白コートの男は云った。
 「離しません。スマホをお借り出来るまでは」
 「スマホなんて他人に貸す訳がないだろう。大体、御前はヒージンだ。スマホを持っても何処にも行けない」
 「行けます。神様に電話をすれば」
 「これを見ろ」白コートの男は彼女の衣類の腕を捲り上げた。その両手首には七色に光る傷跡の様なものがあった。「お前は自ら此処に来た。そう云うヒージンなのだ、スマホなど必要ない」
 彼女は言葉を失って自分の腕を見た。その傷跡は手首を一周して、よく見ると細かい模様に見えた。同時にそれは手枷の様にも見えた。
 「ヒージンが電話した所で神様が迎えに来る訳が無いだろうが、判ったか!」

 一方の彼は、白コートに女が掴みかかる瞬間に走り出していた。地下鉄駅前を通り、地下道を三丁目方面へ走り、左折して、サブナードへと下った。更に、サブナード地下駐車場から下り、工事中の地下道を下り、ルートゾーンへと逃げ込んだ。
 巨大な縦穴は上部都市から流れ落ちて来る排水の雨を滴らせている。墓掘りは地獄に辿り着くまで掘り続ける心算か、都市の底が抜けるのが狙いなのか、傍から見ると判らない。螺旋状の階段は縦穴を下り、その左右に横穴が広がり、更に奥の縦穴がある。それは都市地下層に木の根の様に広がり続けている。
 彼は其処を走りながら思った、何と憐れなのだろう、他人から自分の死を知らされるなんて、惨い。だが、僕が紙を手に入れる為だ、仕方が無い。彼女はどうなるのだろう、バラバラになって排泄されてしまうのだろうか?でも、お蔭で久し振りに紙を手に入れた。
これで絵を描いて、タバコを買うんだ、彼は紙の束を見て恍惚とした表情をした。
 彼の名はト――ワ、この街に暮らすヒージンである。下の名前は思い出せない、また、上の名が正しい苗字なのかも分からない。確かに判っている事は自分が他の連中と同じく死んでいる事、そして、自分が絵描きであると云う事、そして、此処が地獄では無いと云う事だ。此処に来て十数年、既に自分の年齢も判らなくなっている。生前の記憶は殆どぼんやりとしていているが、それに興味はない。沢山の宗教がある幽麗都市シンジュクで、ヒージンは尤も忌み嫌われている。寂しい亡者の中でも最も孤独な輩なのだ。自らが自らを呪って、何処にも行けず、此処に居るのだから。
ト――ワは沢山の紙と書籍が積み上がる、無数の蝋燭が揺らめく部屋で、傘を置き、地面に座り、紙を持ち、何かを描き始めた。
罪がある事が問題では無い、罪を背負わされている状況が問題なのだ、彼は冷笑して思った。

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