無人の灯台

近況報告として。

先日異動の内内示が出た。再び沿岸から内陸への引っ越しだ。もう家は決めてきたが、身がもたないので引越し作業は4月末にしようと思っている。
この3年は精神的に肉体的に過酷だった。今もまた突然の隕石みたいな事件と混沌の渦中にいて、いろんなことがどんどん悪い方向に行っている。閉学も現実味を帯びてきている。次の異動先では少し休もうと思う。なんだかとても疲れてしまった。

休眠の間のことや、その理由、最近のこと、これからどうするかなども、考えたり説明したりするのがひどく億劫になってしまったので、沿岸に来たばかりのころに書きかけたもので今もそう思うものをとりいそぎ載せておくことにする。



夏が来る前のある日、せっかく沿岸にいるのだからと、灯台まで行った。

このあたりは断崖が多く、沿岸はずっと山道に似たトレッキングコースになっている。これまでは海といえば砂浜に行くことが多かったので、軽い山装備で海岸線を歩くのはなんだか新鮮だった。

世界の最果て感が好きで、旅行などでも行けそうな範囲に灯台があると行ってしまう。
だいたいは崖で、まちからは遠く離れて、浜の賑わいからも離れて、ぽつんとしている。そのようなところにかつては人が常駐してあかりを灯していたというのだから驚いてしまう。家族帯同だったとも聞く。
道もそんなに整備されていない時代に自分の足で赴任して、晴れの日も嵐の日も人里離れた場所で役目を果たし、海と空を見つめる暮らしはどんなだったろうかと思う。

岩の上に腰掛けて、波の音に囲まれ、岸壁の岩の割れ目とハマナスの花を眺めながら、ぼんやりと、灯台と海と灯台守のこと、また、転勤という仕組みのことを思った。

転勤が必要なところというのは、つまりは灯台のようなところなのかもしれない。
誰かは行かなくてはいけない、けれど自然に任せていては人が来なかったり偏りが出る、そういうところ。広範なエリアをカバーし、均一に何かを保たなくてはいけないとき、組織で強制的に人を配置することで、それを実現するわけだ。

グスコーブドリはいつでもどこにでもいるわけではないし、そんな不安定な自己犠牲にすべてを預けて依存することは、計画性というものからはかけ離れている。近くで人を募集すればいいというのは、いつでも目的の人が採れる都市部の幻想であって、保安だけでなく、教育でも医療でも、特殊技能を持った特定分野の専門家が辺境にも満遍なくいて、余っていて、募集すれば黙っていても応募してくる、なんていうのは、どう考えても夢物語だ。医師がいないので診療科をなくす、というのは地方ではよくある話だし、学校も大学も、教員の公募をかけても目的の人が来ないことはよくある。地方の、辺境の、人が少なかったりそのままでは人が集まりにくいところであればあるほど、転勤・強制配置という仕組みは有り難いのかもしれない。置かれる方からは居住移転の自由が奪われるとしても。

国土も、安全も、医療も、教育も、インフラも、便利な生活も、均一を望む限り、誰かの転勤は発生する。全国どこでも同じ制度、同じサービス、同じ暮らしを望むなら、それは誰かの転勤か、犠牲を望むということになる。
そのうち、人が減って維持できなくなれば、線路同様、どんどん廃止されていくのだろうと思う。地方は僻地だらけになり、縮小し、寂れて消えていき、人がいるところにだけまた集まって、城下町やスポット的な場所だけになって。学校も病院も大学も、なくなるか、この無人の灯台みたいに、サテライト的なものになって、管理者が時たまきてエリア内の面倒を見るような、そんな感じになるのかもしれない。
みんなグスコーブドリを求めているが、そんなにたくさんのグスコーブドリは存在しない。
そうじゃない?

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