或る同僚に思うこと

今月、私の敬愛する同僚が職場を辞める。

いつか辞めるだろうなと思っていたから、驚きはしなかったけれど(むしろようやくか、という感じ)、周辺では色々と衝撃が走りあちこちで風波が立っているらしい。逆にみんなそんなに人は辞めないもんだと思ってるんだ、と、少し驚いた。
とある分野の専門家である同僚を失うことは、確かに大学にとって重大な損失だというのはあるけど(そして一部の先生からは何みすみす人材流失させてんだという相当なバッシングが来そうだけど)、そんなの相応の対応をしなかった事務局長の責任だし、今の業務をどう継続させるかなんてのはチームと上長が考えればいい仕事だし、いなくなるのが寂しいと私が思うのも、極めてわがままな個人的な感情だし、同僚を束縛するものは、実は何もどこにもない。誰も、縛れない。他の人だって、みんなそうだ。サラリーマン組織ってそういうもんだと思うが、人に辞められることに慣れていない職場では、辞めないことに甘えて全然準備をしておかないようである。
人が辞めない前提で固められた組織で自己都合で辞めるというのは楽ではない。どうしたってあちらこちらからなにやかにやがある。退職日まではもう少しだから最後のひと仕事だと思って頑張れ、と、退職活動(?)をひっそりと応援している。

さて。その同僚のことを少しだけ書いてみる。

同僚は、努力の人の代表という感じだった。自分を鍛えることになんの躊躇もない、とにかく自分を甘やかさず徹底的に追い込む感じの人。生き急いでいるように、周りからは見えるかもしれない。
同僚は常に私の手本だった。手を抜いたり、諦めたり、仕事なんてそうしようと思えば簡単にできてしまうのだけど、絶対にそうしない同僚を尊敬していた。論理的で、ファシリテーションも得意だし、芯があって、柔軟で、面白いアイディアをぽんぽん出して、約束の期限は伸ばさない。話し合いをきっちり終わらすために相当な準備をする。ストイックで、いつだって目標は高く、外を見つめていた。まるでアスリートのようだった。
職員や教員との接し方もとても積極的で軽妙で明るいのだが、それらは実は演じている自分なのだと、ある時教えてくれた。本当の自分は、不器用で、人付き合いも苦手で、外向的でもアクティブでも何でもなくて、オフは誰とも話をしたくないし、休みの日なんかはひとり布団にくるまってじっとしていたいタイプだという。職場では別人のキャラを作って、同じ名前をした仮面を被っているらしかった。
まじか、と思った。私なんかは警戒してA.T.フィールドを何重にも張るか、警戒を解いて素でいるかのどちらかしかないので、そんな風に別人を演じられるというのが、純粋に器用ですごいなと思った。そして、そんなそぶりを全然見せないので相当プロだなと思った。それから、たいへんに疲れそうだな、とも、思った。
だから今回辞めるときいて、最初に思ったことは、周りの人のために演じている部分を辞めて、その分の力も目標につぎ込むんだろうな、ということで、それだけ本気で人生掛けに行くんだな、ということだった。合っているかはわからないけど、そう感じた。
今回辞める理由については、私は何も知らないし、聞くつもりもない。在職中の退職理由の説明なんてどうしたって建前にしかならないので、そんな説明はさせたくないし、聞きたくないのだ。そういう話はするんであればもっと後になってからでいいし、そうでなくたって自身がもっと自由にしあわせになる道だってことは感じるから、それ以上のことなんて知らなくていいと思っている。

数少ない、私が心通わす同僚。大切な友人。(と思っているのは私の方だけでないことを願うが、どうかは知らない)
できればこの先ずっと、いい関係性を保ちたいけれど、お互いのその時その時で置かれる状況次第で自然と流れていってしまう関係もあることを、私はよく知っている。だからこの先の繋がりに過大な期待はしていない。ただ、この職場で出会った一人として、少しは同僚の記憶に残りつづけたいと願うばかりだ。


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