真っ青な「自由」

こんにちは、Yusonです。
今日はみんな大好き、「自由」について考えてみたいと思います。

自由に生きること、とは誰もが平等に持つ権利の一つです。そんな当たり前であるべき権利が、国や地域、時代によって制限・抑圧されてきたことも悲しい歴史の一部となっています。

人は、より良い生活、信じている理念、自由に生きることを求めて、歴史上「戦い」を繰り広げてきました。今も地球上の至る所で、そうした「戦い」のために多くの血と涙が流されているはずです。


そもそも「自由」とは何なのか。
とある旅先でずっと考えていた時期がありました。青臭かったのですね。(笑)
一体どれだけの人が、純粋に自分の意志に従って「自由に」生きているのか。とっても疑問でした。自分は自由に生きていない、という思いの反動だったのかもしれません。
また、それは単なる「楽なこと」や「自分勝手であること」とは明確に一線を画すものだよなぁ…、とぐるぐる考えていました。

コスタリカの海を眺めながら、ぼんやりしていると、一人の男性が声をかけてきました。
レゲエ風のナイスラテンガイ。
流れに任せてお話していくうちに、改めて自分の疑問を投げかけてみようと思いました。


「ねぇ、話変わるけど、自由ってどういうことだと思う?私ずっと考えているの」

彼は答えてくれました。

「そうだなぁ、今こうして海を見たり、新鮮な空気を吸えたり、青い空を見ているだけで、僕は自分が自由なんだって思える」



嗚呼、そうか…。
そういうことなのか…。

彼の答えはとても詩的で、頭で理解することは難しかったです。でも、その時、私は確かに心から「納得」してしまったのです。今でも、あの時の爽快な氣持ちを鮮明に思い出すことが出来ます。
今思えば、「所有」というものに自分が囚われていたから、彼のようなアプローチが出来なかったのかな、と思います。多く持っている人が「自由」で、そうではない人は「不自由」。

時間が経っても、彼の表現を論理的に「翻訳」することが出来ません。つまり、心でしか感じることの出来ない「答え」だったのだと思います。あの表現以上でも以下でも、私は深く納得出来なかったと強く思います。グラシアス、コスタリカ。(笑)

今の時代、自己責任の名のもとに、二種類の「自由」があります。
「○○してもいい自由」と「○○しなくてもいい自由」。
人の在り方が多様になればなるほど、「自由」についての解釈も多様になるのだろうな、と思います。明確な正解が無い分、自分の選択に自信を持てない夜もあるかもしれません。
そんな時ほど、青い「自由」を身にまとって、「私にとってこの道が一番正しかったんだ!」とコスタリカの海に向かって叫びたいと思います。


*次回の更新は10/6です!よろしくお願いします。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)