past.11 (Rose Garden:act.3 薔薇の予感)


自分が恵まれていることなんて、とうの昔に知っていた。
由緒正しい家柄。権力的な父。優しくて慈愛に満ちた母。安定した財力。絵にかいたような幸せに溢れた家庭。何一つ、不満なんてなかった。

「自由に生きていきたい」とこぼす友人が、滑稽にすら思えた。
若者があまりにも青い時分、うかされながらも憧れるその熱病と堕落を、彼は心の底から軽蔑していた。
彼は早熟だったし、「自由」と「無計画」を履き違えるほど、世間知らずでもなかった。
周りがひどく稚拙に見えるたび、心の中で深い溜息を吐かずにはいられなかった。

そう、自分は恵まれているのだ。
他の誰もが羨む世間的レッテルを、自分は生まれながらにして与えられている。
ならばそれを「正当に」、そして「的確に」使いこなすことが、自分の使命なのではないかとすら思った。
真っ当に学び、社会と人の「役に立つ」。それの何が悪い。これ以上立派なことがあるようには到底思えなかった。
決められた「安全な道」を着実に歩み生きていくこと。こんなに「恵まれたこと」なんて滅多に無いはずだ、と自分自身に言い聞かせた。そしてそれは同時に、自らの痛いほどの無力さを見てみぬふりするため、必要不可欠な言い訳でもあった。

富も権力も将来も。生まれながらに決まっていた。
自分にとってこれらは「義務」なのだ。……自分は本当に恵まれているのか?人は言う。では、一体何に?

自分はそれらを、選べすらしなかったではないか。腹正しいのはいつだって、踏み出せない自分の不甲斐なさと有り余る惨めさだった。


ふと、エドワードは思うのだった。

自分の「恵まれた」それら全てを、一思いに投げ捨てて、空っぽになり過ぎた「ただの自分」というものを「特別な誰か」と共有してみたい。
人は誰もが無力で、どうしようもない存在なのだという「諦め」をその「誰か」に、甘く受け入れて欲しいという強い衝動に駆られた。
偉人たちが記し残した「生きる喜び」とやらを、生身で実感してみたかったのだ。
長く続いた人類の哲学と英知は、果たして本物なのかどうかを己の人生で試してみたかった。


「あなたは恵まれていて羨ましいわ。」
安穏とした毎日の中、呪文のように繰り返されるその表面的な「賛辞」に、激しい怒りを覚えもした。しかし、そんな彼の熱い感情さえ日々、徐々に失われていくのだった。整った顔で美しく謙遜すれば、やがて心は冷たくなり、細胞が死んで行く。華やかで乾いた笑い声に包まれるほど、モスグリーンの瞳は影を帯びた。



その日は、確かに不思議な予感がした。
とてもよく晴れていたし、裏庭は春の静けさに包まれていた。
読書と昼寝には最高の日和で、エドワードはうとうとまどろんでいた。


「もしもし?」
…誰かが自分を呼んでいる。そんな夢なのかもしれない…。

「ねぇ?」
…誰だ?…この声は聞いたことも無いな…。

睡魔からやっとの思いで逃れた彼はうっすら目を開ける。
しかし、目の前には誰もいない。やはり夢か…。
もう一度贅沢な時間に戻ろうとしたとき、痺れるような声が彼の心をかき乱した。

「ねぇ、あなたって可愛そうなのね!」
穏やかならぬ日々を予期させる、嵐のような言葉。エドワードはドキリと、声の主を探す。ふと上を向くと小窓から少女が身を乗り出している。
ダークブラウンの瞳がキラキラ光る。右手がひらひら薄く揺れる。


「なんだって…?」
彼女は小窓に足をかけ、よっ、と庭に下り立つ。ドレスの裾がぶわりと舞う。
薔薇の香りを漂わせながら、その少女は自分の前にきゅっとかがむ。

「だーかーら!自由な人生を愛せないなんて、あなた可愛そうって言ったの。いい?自分がドラマを望まなければ、何もかも変わりはしないのよ。これ、哲学の基本よ。あの立派な書斎はただのお飾りなのかしら?ウンベルト・エーコが聞いて呆れるわ」
ふふふん、と彼女の黒髪が揺れる。目尻がきゅーっと悪戯に細く伸びる。

エドワードは混乱していた。彼女に聞きたいことが山ほどあった。
そもそも君は誰なんだ、とか、なぜ自分の書斎を知っているのか、とか、レディがドレスで小窓から飛び降りるなんて破廉恥だとか。実に多くの冷静な疑問が彼の頭を支配した。しかし、そんな彼の理性も虚しく、珍しく自分のものではないような、けれど同時に、長い間見てみぬふりをしていた無意識と直観の扉からなだれ込む、全身を駆け巡る熱量にただ彼は侵されるしかなかった。


嗚呼…もしかしたら…。
自分はこの聡明なダークブラウンの瞳に、何もかも見透かされ、救われ、そして…、

彼女を深く愛してしまうんだ、とエドワードは思わずにいられなかった。


*こちらも是非、よろしければ。



憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)