幸せの補足


こんにちは、Yusonです。
先日、「幸せ」について書きました。



短くない間、「幸せ」ってどういうものなのか、よく理解出来ませんでした。
「お風呂上がりのビールって最高に幸せ!」とか言われても、あまり実感が湧きませんでしたし、正直、欲を満たすことが「幸せ」と直結しているのかどうか、疑問を感じていました。
そもそも、そんなに簡単に「幸せ」を感じられるのなら、溢れんばかりの「幸福論」や「幸せになるためのヒント」は要らないじゃないか、とか思っていました。(笑)


じゃあ、私にとって「幸せ」ってなんなのか。
その答えを意識的にも無意識的にも探し求めること。それがここ3年ほどのミッションでもあったような氣がします。


「まずは先人の偉業から…」という訳で手に取ったのが、イギリスの思想家、バートランド・ラッセルの『幸福論』(1930)でした。
岩波文庫でコンパクトにまとめられており、現代でも全く色あせない見事な翻訳で綴られています。(個人的に岩波の翻訳って「化石」みたいで好きじゃなかったのですが…(笑)これはスキ!)

「幸福」というふわっとした概念に現実的なポイント、然るべき視点からメスを入れ、読者が陥りがちな「不幸」、例えば、誤った被害妄想だとか、どうしようもない不安症などについて徹底解説しています。いやぁ、本当、感謝。(笑)

その中でも印象的な部分を3カ所引用してみたいと思います。

*なんぴとも完全であることを期待すべきではないし、また、完全でないからといって不当に悩むべきではない。(p126:第8章 被害妄想)
*魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広くあけて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。(p250:第15章 私心の無い興味)
*たとえば、伝統的な道徳家は、愛は非利己的でなければならない、と言うだろう。ある意味では、そのとおりである。…しかし、私たち自身の幸福と引き換えであってはならない。(p272-273: 第17章 幸福な人)


特に二番目、三番目の引用はとても印象的でした。
「心の窓」を開けること。自分に対してばかりベクトルが集中してしまうと、行き詰まり、とても疲弊してしまいます。柔軟性や他者の意見を聞くためにも、やはり「換気」が必要なのかもしれません。また、自分が幸せを感じられなければ、他者に対してどこまで穏やかに接することが出来るのか、という点も考えさせられます。



「可哀そうな自分」から卒業しなくちゃ、と思い立ったことがあります。鬱々と悩んだり、不安に襲われたり、悲劇のヒロインになったり…。
いつまでこれを繰り返すんだろう…と思ったとき、なんだか自分が虚しく思えてしまいました。人生をもっと有意義に、明るい時間の使い方だってあるはずだ、と思ったのです。

今思えば自分を憐れむという言い訳によって、自分の現状に理由が欲しかったのかもしれません。ギリギリのところで安心したい、という気持ちもあったと思います。
でもそれは「美」の一部ではあるけれど「幸せ」とは全く重ならないのだと気付きました。ジャンルが違う。

人間の闇や影は魅力的です。
毒性も強く、酔いもすぐ回ります。
でも、自分がどんどん蝕まれてしまいます。
「華やかなロマン」だってあるはずなのに、それを味わう前に食いつぶされては本末転倒です。だから、ほどほどに。



3年も探し続けて、やっと先週、
「朝、時間を気にせずふわふわの毛布に包まれながら、むにゃむにゃすること」が「幸せ」なんだと感じました。
それは「単に欲を満たしたことの満足」ではなくて、なんとも言えない安心感でした。
「え?こんなこと?」と自分でも戸惑いましたが、いっぱい寄り道してたどり着いた「答え」なら、きっとこれが「私にとっての正解」なんだと思います。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)