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【医療者向け】無痛分娩マニュアル

免責事項

この無痛分娩マニュアルは、医療従事者を対象に書かれています。基本的に科学的根拠に則って記載してありますが、一部専門家としての意見も含まれています。実際に妊婦さんへ実践する場合は、施設の基準や個々の臨床判断を優先して行なってください。本マニュアルの内容は、最新の医学的知見に基づいていますが、すべての状況や妊婦さんに適用できるとは限りません。本マニュアルの利用により生じるいかなる結果についても、著者は責任を負いません。医療従事者は、自己の専門的判断に基づいて、適切な診療を行ってください。


はじめに

無痛分娩の目的は、痛みを取り除くことではありません。無痛分娩は妊婦が自分らしい出産体験を叶えるためのいくつかあるツールのひとつでしかないことを理解することは、軸がブレないためにも重要です。

極論を言えば、痛みが全くないことを主目的とするのであれば、全身麻酔をかけ、帝王切開をし、術後創部痛がなくなるまで1週間ほど人工呼吸管理をすればよいですよね。そうすれば、痛みを完全に取り除いた出産になります。

しかし、それでは妊婦さんが望む出産体験とは、かけ離れたものになってしまいます。我々麻酔科医は痛みのスペシャリストである一方で、出産における無痛分娩の立ち位置を把握し、安全で効果的な産痛緩和を提供することが求められています。

このことをちゃんと理解して、無痛分娩診療にあたる必要があります。

無痛分娩の適応

現代医療において、お産の痛みを和らげる産痛緩和を希望することは、妊婦の権利として考えられています。そのため、無痛分娩の適応は「産痛緩和を希望するすべての妊婦」と言えるでしょう。

一方で、医学的な観点から、無痛分娩が勧められる病態は、①血行動態の変動が好ましくない心疾患合併妊婦、②妊娠高血圧症候群妊婦、③麻酔困難妊婦の3点です。

心疾患合併妊婦と無痛分娩

一言に心疾患合併妊婦と言っても、数年に一度の発作性心房細動から、複雑心奇形で単心室循環を有する妊婦まで、臨床的にも幅が広いので、ひとくくりにし難い点があります。

心疾患合併妊婦の経腟分娩に際して、基準となるのが、日本循環器学会と日本産科婦人科学会による「心疾患患者の妊娠・出産の適応、管理に関するガイドライン」。

心疾患の病態によって大きく4つのクラスに分類され、重篤な病態であるほど血行動態の安定化が求められ、無痛分娩が推奨されます。

「心疾患患者の妊娠・出産の適応、管理に関するガイドライン」より抜粋

分娩は定期的に子宮が収縮し、内容物である胎児が回旋しながら産道を通過して娩出される一連のプロセスです。子宮収縮は痛みを伴うだけでなく、子宮筋層に流れる血流が体循環へ移動し、一時的に0.5〜1Lの静脈環流が増加します。

心疾患のない妊婦であれば、このような循環負荷によく耐えますが、心収縮力が弱っている妊婦ですと、十分に血液を心臓から駆出できなくなり、心不全に陥ってしまう可能性があります。

硬膜外麻酔は交感神経を遮断し、末梢血管抵抗を緩やかに減少させるため、後負荷が減少し、心機能が低下している場合には、心不全に対して保護的に働くと考えられています。

522名657妊娠を対象とした大型の後方視研究では、83.4%の妊婦が経腟分娩の際に無痛分娩を受けていました(Goldszmidt, et al.)。さらに、別の研究では、心疾患合併妊婦への硬膜外鎮痛が不整脈系合併症の減少、血圧上昇抑制に寄与することが示されています(Tanake, et al.)。また、ファロー四徴症、マルファン症候群、川崎病など、さまざまな心疾患合併妊婦における無痛分娩の有用性に関し、国内外から報告されています。かつて、肥大型心筋症や大動脈弁狭窄症を合併した妊婦において、硬膜外鎮痛は末梢血管抵抗を減少させ、循環動態を破綻させるため禁忌と考えられていました。しかし、近年一般的に無痛分娩で使用される局所麻酔薬は低濃度であることから、このような妊婦においても安全に無痛分娩が実施できたとする症例報告もあります(Driul, et al.)。中心静脈路を確保し、観血的動脈圧波形を観察しながらであれば、循環作動薬を併用しながら無痛分娩を安全に行うことで、Eisenmenger症候群を含めてどのような心疾患合併妊婦においても対応することは可能である。

Passive Deliveryで、心臓への負担を回避
通常の分娩では、無痛分娩を行なっているか否かに限らず、努責(いきみ)が必要となります。努責とは、生理学的に言えばバルサルバ法による胸腔内圧の上昇で、静脈灌流の減少と心拍出量の低下を伴います。

子宮収縮のタイミングで努責をかけることによって、横隔膜が尾側へ移動し、子宮底を押し下げることによって、胎児が娩出されますが、心疾患合併妊婦、特に重篤な閉塞性病変(大動脈弁狭窄、肥大型心筋症)や肺高血圧を伴う妊婦では、繰り返す努責によって、循環動態の悪化を招く恐れがあり、努責そのものが好ましくありません。

そのような場合、児頭がある程度下降した段階(例えばステーション+2)で妊婦に努責をさせずに、選択的に器械分娩(多くは低位鉗子分娩)を行うpassive deliveryが好ましいです(Canobbio, et al.)。

このような妊婦において、一見帝王切開の方が安全のように感じられますが、努責がなければ心臓への負荷は最小限であり、むしろ麻酔の導入に伴う血行動態の変化の方が循環動態へ悪影響を及ぼしてしまいます。このような分娩法を産婦人科医とディスカッションすることで、合併症妊婦に対してより安全な分娩を提供することができます。 

妊娠高血圧症候群と無痛分娩

妊娠高血圧症候群は高血圧を主症状とする病態で、全身の血管内皮障害によって多臓器症状を合併します。収縮期血圧160 mmHg以上、拡張期血圧110 mmHg以上だと「重症」と診断され、脳出血や子癇発作が起こりやすくなるため、血圧コントロール目的で、無痛分娩が選択されることは多いです。

重症では末梢血管抵抗の上昇と心拍出量の低下が観察され、心臓への負担となり重篤な合併症である周産期心筋症へ発展する可能性があります。そのため、硬膜外鎮痛による無痛分娩は有用と考えられています。

しかしながら、この有用性をサポートする科学的根拠は、あまりありません。エビデンスは乏しいながらも、すでに無痛分娩が普及した国においては、ある種の「常識」として考えられているため、妊娠高血圧症候群妊婦の分娩への無痛分娩が推奨されています。

一方で、妊娠高血圧症候群妊婦の分娩に際して、無痛分娩さえ実施すれば血圧管理が不要となるわけではない点に注意が必要です。痛みがないため、分娩中の血圧管理が行いやすくはなりますが、何らかの降圧治療を併用していきます。

麻酔困難妊婦と無痛分娩

事前に良好な産痛緩和が硬膜外カテーテルで得られている場合、そのカテーテルを利用して帝王切開麻酔に切り替えることができます(Desai, et al.)。

高度肥満や側弯症など、脊髄幹麻酔が困難である妊婦において、良好な無痛分娩が硬膜外鎮痛によって得られている場合、緊急帝王切開が必要となった場合でも、問題なく帝王切開麻酔を提供することができるのは、安全な麻酔管理という観点からも好ましいです。

また、気道確保困難が予想される妊婦においても、帝王切開麻酔に利用できる硬膜外カテーテルが留置されていれば、カテゴリー1のような超緊急帝王切開が必要になった場合に、速やかに硬膜外麻酔による帝王切開に移行できます。

無痛分娩の主たる目的は産痛緩和ですが、このような患者安全の観点からも推奨されます。実際、北米ではBMIが50 kg/m2を超えるような肥満妊婦が多く存在しますが、分娩中に硬膜外カテーテルが留置されていることにより、緊急帝王切開における麻酔の確実性を事前に高めることで、安全性を保っています。

そのため、あらかじめ麻酔困難(脊髄幹麻酔および気道確保)が予想されている妊婦においては、無痛分娩を勧めることは、麻酔を安全かつ確実に提供するという観点からも好ましいと考えられています。

CSEAの適応

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