【評伝】石原信雄氏ー-優れた行政手腕と豊かな教養を備えた官房副長官

1月29日(日)、元官房副長官の石原信雄氏が逝去しました。享年96歳で逝去しました。

旧制第二高等学校から東京大学を経て1952年に地方自治庁に入庁した石原氏は、サンフランシスコ講和条約の発効に合わせて米国流の地方制度を修正する機運が高まった時期に茨城県庁に赴任し、地方自治の実務に携わりました。

その後、鹿児島県、岡山県から改組後の自治省に戻った石原氏は、市町村税務課長や税務局長として住民税の非課税限度額などを手掛け、1981年に官房長、1982年に財政局長を歴任し、1984年7月から1986年7月まで事務次官を務めました。

自治庁時代から数えて34年にわたる官僚生活を退いた石原氏が内閣官房副長官に就任したのは、竹下登内閣が発足した1987年11月6日のことでした。

竹下登氏を後継者に指名した中曽根康弘首相の下で官房長官を務めていたのは、後藤田正晴氏です。

後藤田氏は石原氏が税務局長時代の自治相でした。自治省の主管大臣として税務局長の精勤ぶりを後藤田氏が評価したこともあって、旧内務省系の官庁から輩出することが慣例となっていた官房副長官に石原氏が選ばれたのでした。

これ以降、石原氏は1995年2月に退任するまで7年3か月にわたり官房副長官を務めることになります。

官房副長官の任期は通常3年であるにもかかわらず在任期間が7年3か月に及んだのは、ひとえに実務面においても、官僚機構への理解の点でも、石原氏が優れた知見を有していたからに他なりません。

それとともに、石原氏が官房副長官に就任した1987年以降、リクルート事件や東京佐川急便事件、あるいは政治改革問題などによって政権が頻繁に交代する中で、官僚機構の安定を維持するためにもその存在が欠かせなかったという、当時の政界の事情がありました。

また、1993年8月に七党一会派による細川護熙政権が成立すると、その中心となったのは新生党代表幹事の小沢一郎氏でした。

小沢氏と石原氏は、自治大臣と事務次官として自治行政をともにしただけでなく、1986年の総選挙の際、選挙事情を視察するために石原氏が岩手県を訪問し、小沢氏の母と面会するなど、公私にわたる交流がありました。

こうした関わりが、政権党が変わっても官房副長官を務めた、見逃せない要因の一つであったと言えるでしょう。

ところで、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市と7人の首相を支えた石原氏が、1度だけ政界に進出しようとしたことがありました。1995年4月の東京都知事選挙です。

この時は、旧自治庁事務次官から内科官房副長官を務めた鈴木俊一氏の実質的な後継者として立候補したものの、実務能力に長けてはいたものの一般的な知名度が高くなかった石原氏に比べ、作家や俳優として活躍し、参議院議員としても存在感を発揮した青島幸男氏に敗れています。

これ以降、東京都知事は政治家としての手腕のいかんよりも知名度の有無がより重視されるようになり、現在に至っています。

その意味で、石原氏は都政の大きな転換点に立ち会ったのでした。

そして、1995年の都知事選後は政治に直接携わることはなく、主として地方自治制度の活性化と発展に尽力しました。

大学時代にはフランス語に親しみ、フランス映画を上級生に解説するなど、素顔の石原氏は豊かな教養を備えた人物でもありました。

一方で、官界を知悉し、政治家と官僚との橋渡し役を担ったのも、石原氏の大きな功績です。

「政治家は選挙を通じて国民の要望を吸い上げ、官僚は行政の健全性や政策のバランスを保ち、社会の安定につなげる」という石原氏の信念は、「官邸主導」や「官僚の萎縮」を経験した今だからこそ、改めて見つめ直したいものです。

多年にわたり日本の発展を側面から支えた石原信雄氏のご冥福をお祈り申し上げます。

<Executive Summary>
Critical Biography of Mr. Nobuo Ishihara (Yusuke Suzumura)


Mr. Nobuo Ishihara, a Former Deputy Chief Cabinet Secretary, had passed away at the age of 96 on 29th January 2023. In this occasion we examine the life of Mr. Ishihara.

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