発生後90年目に考える「五・一五事件の現代的意義」

去る5月15日(日)、1932(昭和7)年5月15日にいわゆる五・一五事件が起きてから90年が経ちました。

周知のとおり、五・一五事件は三上卓ら海軍の青年将校や陸軍の士官候補生らが犬養毅首相を官邸で射殺し、立憲政友会本部、日本銀行、三菱銀行、警視庁などを襲撃するとともに、茨城県の私塾である愛郷塾の塾生による農民決死隊が変電所を襲撃した反乱です。

五・一五事件後に重臣や海軍軍人といった宮中官僚の主導によって非常時の暫定内閣として斎藤実内閣が成立し、情勢が安定すれば政党が再び政権を担当すると考えられていたものの、斎藤、岡田啓介と二代続けて軍人内閣が続き、しかも1936(昭和11)年に二・二六事件が起きることで、政党内閣への回帰は不可能となりました。

その意味で、五・一五事件は日本における政党政治、議会政治の崩壊の端緒となる出来事であったことが分かります。

さらに、五・一五事件は、被告となった海軍青年将校らが赤穂義士になぞらえられるとともに、1933(昭和8)年5月16日に事件記事の差し止めが解除された際に「行為はともかく動機は純粋とする」という陸海軍側の意図を国民が支持し、犯行が「憂国の至情」によるものとして主犯格の3人に求刑された死刑を有期刑に減刑した海軍の軍法会議のあり方は注目に値します[1]。

すなわち、民間側の被告が厳罰に処されたことを考えれば、1895(明治28)年に李氏朝鮮の高宗の王妃である閔妃の殺害を主導した三浦梧楼が免訴放免となったこと、1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件の真相がうやむやになったことに繋がる、「動機が適切と思われれば、軍人の行為の結果に対する責任は不問に付される」というある種の悪しき慣習が五・一五事件の軍人に対する判決の中にも認められます。

今や軍隊はわれわれの日常生活とは縁遠い存在となり、五・一五事件も歴史上の出来事のひとつの域を出ないかも知れません。

しかし、「動機が適切であれば行為の結果に対する責任は不問にする」という様子は、日々の生活の中でも散見されるものです。

それだけに、過去の出来事を通して現在の状況をよりよく知り、今後の趨勢への見通しを立てるためにも、90年という節目に改めて五・一五事件が起きた背景とその帰結、さらにその後の影響を知ることの意味は、決して小さくないと言えるでしょう。

[1]この点については、以下の文献を参照せよ。小山俊樹, 五・一五事件. 中央公論新社, 2020年。

<Executive Summary>
What Is a Meaning for Us to Examine the 15th May Incident? (Yusuke Suzumura)

The 15th May, 2022 is the 90th Anniversary of the 15th May Incident of 1932. In this occasion we examine a meaning to pay our attention to the incident.

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