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はじめまして、戸田友介です。

豊田市の岐阜県境の中山間地、旭地区で家族6人で暮らしています。移住して12年、20代後半から40代になりました。大学生の頃に起業した株式会社M-easyも20期目になり、たくさんの自然や地域、人とのつながりの中で、生かされていると感じる日々です。

記事が増えてきたのであらためて自己紹介も蓄積しながら記事を整理して更新していこうと思っています。今までのことを話をする機会も多いですが、多いからこそ、昔のことはここでまとめて、「今、何を感じているのか?」を大切にしていきたいなと思います。<最終更新日:2023年1月2日>

座右の銘

天命に安んじて人事を尽くす
物来順応

地域で、はたらく、いきる、くらしごと

株式会社M-easy 代表取締役
小渡・小原販売店戸田新聞店 店主
つくラッセル推進コンソーシアム 代表
株式会社あんじゃない 代表取締役(地域密着型デイサービスあんじゃない運営)
株式会社きく結び 取締役顧問(訪問看護ステーションかえるの家運営)
一般社団法人おいでん・さんそん 理事(おいでん・さんそんセンター運営)
 NPO法人みち 理事(デイサービス型地域活動支援センターあぜみち運営)
一般社団法人里モビニティ 代表理事
旭木の駅プロジェクト実行委員会 事務局
築羽自治区広報部長
耕LIfeアドバイザー
ぬくもりの里福祉特派員
旭GS(減災)ボランティア会員
旭商工会員
小原商工会員
豊田市消防団第九方面隊第四分団所属
伯母沢流笛太鼓保存会
旭しょうゆづくり会
山里合唱団「こだま」団長 竹内支保子師事
民謡 西守芳泉師事
書道「復朴会」一般の部 1級
あさひ太極拳くらぶ

豊田市生涯学習審議会委員(2022〜2023年度)
豊田市子ども園保護者の会会長(2022年度)
豊田市旭地域会議副会長(2014〜2015年度)

子どもの頃の私

41歳、北名古屋市(旧西春日井郡師勝町)出身。戸田家の長男として生まれ、田んぼの田舎という感じの地域で育つ。

実家は祖父の代からのダンボール工場。自宅の隣の工場にて、家族だけで自営業。祖父、祖母、父、母、2歳下の弟、9歳下の妹と育つ。近隣の幼稚園、小学校、中学校、一番近い公立高校へ通う。

家の隣が工場だったこともあって、幼少期はじいちゃんのペースで家がまわっていた。相撲の時間には夕食を食べていたのでみんなで17時30分、20時以降、テレビは、時代劇、刑事、サスペンスものだけ、休みの日は父のペースで家族の日、必ず家族で出かける(買い物、レジャー、運動)とにかく家族でずっと一緒にいた。

小学校1年生から高校3年生までなぜか毎年学級委員に自動的になる信頼度の高い優等生であったが、大勢の人前でしゃべれないというあがり症だったので、3回も生徒会選挙は落ちる。。。人から頼まれたことはやるけども、自分からはもう出ないと誓う(笑)

運動は苦手、5年生でソフトボール投げ5mだったと思う。幼少期から小学生くらいまで家で延々とブロックをしてモノガタリ設定して楽しむのが大好き。水泳だけはいやいやな時期もあったけど6年間やらせてもらったので、それなりに選手もやらせてもらった。あとは習字6年間。そろばんは半年、サッカー部も1年でやめた。

中~高校 卓球部 高校3年生はエースでないキャプテン。小さい頃の夢は「パイロット」、中学生では、自分の家を建てたいと「建築士」、渡辺篤史の建もの探訪をよく見ていた。高校にはいってもう少し社会へ関心がひろがり「土木へ進学したい」となる。

中学生のときのエピソード

高校生のときのエピソード

大学生の私

一番近い公立高校から一番近い国立大学の名古屋大学へ行けたので家計的にはよかったはず。何かの機会に父の給料明細を偶然ちらっとみたことあるけども(自営業だけど経営者は祖父)家族でいればなんとななるもんだなぁ~と今でも思う。

スタートダッシュ

実家通い。大学に入ったら、車校、遊び、バイトにスタートダッシュ。1年生前期で2年間落としてもいい単位数を全部落とす。。。まぁ、その後頑張ってなんとかなるものだ。入学式前に出会った工学部ウェルカムパーティーの先輩後輩たちととくかく朝から晩まで(朝?)まで健全に?遊び倒すという大学生活前半をおくる。そのまま、工welの運営代表になり、株式会社M-easyの立ち上げの前身となる学部横断した学びの会へ参加することにつながる。

某公官庁へインターンシップでの失望

土木学部へいったら公務員になろう!と某公官庁にインターンシップにいったのが3年生。「名古屋大学を卒業して40代になったらあのポジションだから。」たぶん良かれと思って言われた話にショックを受けて、、、本当なのかどうかもわからない話だけども、なんだかなぁと一気に冷める。

社会にひらかれた場に参加 → 起業

失意の中、各学部横断の仲間と一緒に、名古屋大学大学院教育学研究科牧野篤助教授(現東京大学大学院教育学研究科教授)が座長をつとめる、ひと循環型社会支援機構へ参加 毎月、大学の先生や経営者のみなさんと一緒にこれからの社会について学ぶ。農業に興味を持ち、学業をほっぽりだして農家へ研修にいくようになる。機構のサポートもあり、たくさんの経営者の人たちに叱咤激励されながら、ほんわりした学生たちが起業して突然社会の中にとび出る。4年生の春。

起業といっても最初は何もないので引き続きトマト農家さんへ研修のようなお手伝いのようなかたちで。

たくさんの大人たちに支援してもらい私たちは起業している。色々、吹っ飛ばして、当時のことを振り返ると、なーんもわかったないし、なーんもできていなかったなぁと思う。たくさんの不義理を積み上げ、信頼を踏み倒し、あきれられ、申し訳なかったなと思う。そのせいでたくさんの別れもあり、さまざまなものがそぎ落とされた。1000万円の資本金は、一時マイナス1000万円の繰越損益をこえた。差額は2000万円だ。

起業後

中国上海市崇明島で計画された田園都市プロジェクトに参画

卒業式を迎える前に農業担当でプロジェクトへ、ここから1年半の中国の田舎での暮らしがはじまる。

中国語は体当たりで覚えたけども日常生活くらいは話ができるようになった。結局1年半後、小泉政権下の日中の政治不安、同時期に潰瘍性大腸炎にかかり、帰国。潰瘍性大腸炎は帰国後1年程度でなぜか緩解しその後何もないのはありがたかったが一番絶望していた時期だった。。。

日本に残った組と合流。とにかく儲かる農業ができないか試行錯誤、一方で、昼間は農業、夜間は佐川急便でアルバイトの生活していた。

ご縁があり、常滑へ引っ越し、滞在型市民農園を核とし高齢化社会における農業+生きがいをベースとした新しいコミュニティづくり事業「セントレアガルテン」の企画を模索。結局、自分の力不足で頓挫。。。

やさい安心くらぶ立ち上げ

本当にこれからどうしようと困っている中で、地域のじいちゃんばあちゃんたちに支えられて、かすみを食べて生きていたような気がする。イベントで名古屋へ自分たちのオーガニック野菜の販売をしている中で、近所のかたの無農薬の自家用野菜をいっしょに販売したのが農家ばぁちゃんたちに喜ばれてというところから着想をえて、名古屋市内での安心安全野菜の移動販売開始。2008年、やさい安心くらぶLLPを設立(2013年11月まで事業継続)とにかく寝る暇もなく、走り回り車の中でよく寝ていたような生活を送っていた。

豊田市旭地区へ

日本再発進!田舎をめざそうプロジェクト

2009年9月から2012年3月に、田舎暮らしを志向する都市の若者を田舎に呼び、定住を支援し、新しい価値を生み出すことを目的とした豊田市・東京大学・株式会社M-easyの産官学共同事業として実施した。ここでの学びが私たちの今に深くつながっている。

移住

結局、2010年に夫婦で移住。起業してからずっと一緒に活動していた嫁さんと8年越しに入籍したばかりだった。この旭で年を重ねてながら、お世話になっている地域のおじいちゃん、おばあちゃんのようになりたいと思った。

子どもたちとともに

移住とほぼ同時に長男がうまれ4人の子どもに恵まれた。子どもたちが産まれるタイミングで暮らしの分水嶺を迎えてきた。有難いことに、子どもたちがいたからこそ、暮らしが豊かに、地域でもたくさんの学びの出会いもおとずれる。

私たちらしい暮らしかた、はたらきかた、生きかたを目指して

日々、向き合う。暮らすことも、はたらくことも、生きることも。正解はどこにもないからこそ、大切な家族、仲間、地域のみなさんと共にいること、次の世代へ受け渡していくこと、いつまでも学びながら模索していきたい。






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