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解像度を上げること

以前私の友人が「『食べることが趣味』という人が嫌い。そんなことは金出しゃ誰でもできるわけで、金持ちの怠惰な娯楽でしかない」といっていた。多少乱暴なところはあるが、その時私は妙に納得してしまったのを覚えている。


地方に行く時はきちんと調べてその土地の名物や美味しい店に意識的に触れるようにしている。そんなわけで、以前に比べると舌(と身体)がだいぶ肥えたように思う。ブランドを立ち上げてからの3年半、本当にいろいろな場所であれこれ食べた。

あれこれ食べてわかったことがある。それは、私の食に対するプライオリティが比較的低い、ということだ。

もちろん、食べることは好きだし、私なりにそれなりに、その良し悪しの評価もできるようになったと思う。さらに、「美味しくない」と感じたときの失望は非常に大きく、なんらかの美味しさにより口直しされない限りはその日を満足に終えられないほどだ。

ただ、“それ以上”ではない。特別な理由がない限りにおいて高級レストランに自ら進んで行くことはないし、ある一定以上のレベルに達したときにその優劣を判断できる程に私の解像度が高いとも思えない。食に対しての知的好奇心はそれなりにあるが、香りに対してのそれ程ではないのだ。

それでも私は、今後も引き続き食に対する解像度を上げていきたいと思う。それはきっと、私の人生を豊かにするはずだと信じているからだ。


以前、とある著名な方が、「食においていいものを知ることは効率の悪いことだ。知らなければさしてレベルの高くないもので十分満足できるのに、知ってしまったことでそれでは満足できなくなってしまい、レベルの高いものを追い求めてより多くのお金を払わなければいけなくなってしまうからだ」という主旨の発言をしていた。

それを聞いた際、強い違和感を抱いたのを覚えているが、その違和感の原因がどこにあるのかが当時の私にはよくわからなかった。

その方のいっていることは正しいように聞こえるし、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。ただし、この発言が正しいものとなるためには、ひとつの前提条件が必要となる。

それは、「解像度が低い状態での『満足』と解像度が高い状態での『満足』が同じレベルである」ということだ。

つまり、食に対しての経験が浅く、解像度も低い人が食から得ることができる最大限の満足感と、その反対に食に対して経験豊富で解像度が高い人が得ることができる最大限の満足感を比べた際に、前者の「満足感」と後者の「満足感」が全く同じであるのであれば、確かに先の発言は正しいことになる。ただし、もし仮に、前者が後者よりも劣っている、つまり食に対する解像度が高い人の「満足」がより深いものであったとしたら、ふたつの「満足」を同じものだとは捉えられなくなってしまい、その方の発言は間違ったものとなる。

私はそれらの「満足」には大きな差がように感じている。確かに、よりよいものを知ってしまったがために満足できる頻度が減るということは往々にして起こりがちだが、その中で見出される数少ない「満足」にはより深い感動が伴うように思う。そして、本当の意味でいいものを知るというのは、単にお金があればできることではなく、それを理解するための知性も一緒に求められるはずで、その点において解像度が高い中での「満足」には、大きな知的好奇心の充足を伴うことだろう。


昨今重要視されている「コスパ」や「タイパ」といった効率を重視したアプローチでは到達できない深みが、きっとこの世の中にはたくさんある。解像度を上げることの意義はそこにある。そして、モノを作る人の役割のひとつは、そんな深みを世の中に提供することだと、私は信じてやまない。


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