塩を給料でもらってうれしい?
昔々、塩を制するものは、人を制する塩、と言われるほど、塩は人間にとって欠くことのでき重要な交易品の一つであったのです。
ローマ時代、兵士の給料の一部が塩(サール)で支払われていました。
そこからサラリーという言葉が生まれたのです。
塩がいかに重要だったかおわかりになるでしょう。
日本においても同様で、平安時代には春秋2回、ボーナスのような形で役人に塩が支給されていたそうです。
日本では岩塩が出ないため海水から塩が採られていました。
したがって、古くは海藻を浜に積んで海水を注ぎ、太陽熱で乾かした後、焼き、後に残った塩を採る方法が行われていました。
万葉集に、朝なぎに玉藻刈りつつ夕なぎに藻塩焼きつつ
と歌われていることから、この製塩法が実際に行われていたことがうかがえます。
しかし、この方法は能率が悪いので、塩田法が行なわれるようになっていきました。
「赤穂浪士」で知られる赤穂はこの塩田法で良質な塩をとっていたと言われています。
赤穂浪士の敵役吉良上野介の領国も塩の産地として有名でした。
浅野吉良のトラブルは浅野の塩の評判が良すぎて、吉良の塩の売れ行きが悪くなったた・・・面白くない吉良が浅野に意地悪をしたのが発端になったと言われています。
とにもかくにも塩なしでは生きられるのが人間ということのようです。
平安時代には塩ばかりではなく、サケが給与として支払われたこともあったとか。
延喜式大膳式雑給料に月料として五位以上の高官に鮭「二分隻之一」米や大豆とともに支払われたことが記されているそうです。
月料のほかにも夏祭雑給料、春日祭雑給料などといった形で支払われていたのです。
また、当時は祭祀にも鮭が用いられていたので、その需要は相当なものだったようです。
ちなみに位の低い者たちに対しては、鮭でなく、サバが用いられたらしいです。
ヨーロッパ、ポーランドでしたか岩塩の採掘場に観光に行ってことがあるのですが、地下奥深くに掘り進んだようで大変興味深かったです。
奥へ奥へ、下へ下へと降りていき、行き着いたところは大きな広間がありました。
美しく響いて音響がいいので、そこでは時にコンサートが開かれる、と言うことでした。
そこのお土産屋さんで岩塩を買って帰りました。
友人がボリビアに行ったときボリビア土産として岩塩をもらったことがあります。
やはりいつのもしおとは違って料理の味が良かったような気がします。
屋久島に行った時には、そこの持ち自らが塩田に海水をまくデモンストレーションを見せてくれたり…。上手でしたよ。
昔ながらの塩田を見学し、塩を買って帰りました。
私は岡山出身なのですが、小学生のころ県南の塩田にに行ったのを思い出します。
あの頃は、まだあちこちに塩田が見えていました。
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