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今年2023年は日本にとって重要な年です - 北海道南西沖地震から30年、NPO法の成立から25年 -

今から、ちょうど30年前のことです。

1993年7月に北海道南西沖地震があり、大地震と津波が北海道奥尻島や、その近隣地域を襲いました。

奥尻島の位置です

当時大学4年生の私は、初めて災害ボランティアをすることになり、奥尻島に駆けつけました。

ボランティア元年(1995年)となった阪神・淡路大震災以降、「地震があったら、災害ボランティアが駆けつける」が普及していますが、実は1993年の北海道南西沖地震までは、そうなっていなかったのです。

30年たちましたが、初めて今回、当時の現地の様子を以下にしたためて、今と後世に語り継ぐことに貢献したく思います。

1. 奥尻島に行ったきっかけ

大学時代、居酒屋バイトに明け暮れ、当時の私は「社会貢献やボランティアは、欺瞞だ」と思っていました。

就活は今と違い、当時は大学4年の3月頃に始まり、6月で内定が出たら終わるので、学生は7月から暇になります。

すると、7月12日に北海道南西沖地震があり、大地震と津波が奥尻島を襲ったと報じるニュース映像を、夜、都内の自宅で私は見ました。

ですが、「大変だなあ…」止まりで、よもや自分が奥尻島に関わるとは思いもせず、その後、偶然大学の構内の柱で「奥尻島に行こう。学内で説明会を開催」という手書きのチラシを見かけました。

「おや?」

かつて就活で私が総合商社を受けた時に、「ビッグビジネスをしたい」と面接官に話していた、同じ大学の就活仲間が、チラシで呼びかけ人に入っていると気づいたのです。

「スーツに身を固め、ボランティアなんて無縁そうに見えた彼が、なぜ?」と、冷やかし半分で、説明会会場に行ってみました。

説明会が開催された教室で、教壇では、現地帰りのNGOの人が「奥尻は、大変なことになっています!」と力説していました。

ですが、居酒屋バイトに明け暮れた守銭奴の私は、内心で「へえー… 大変だねえ」と冷ややかに聞いていました。

ところが、1993年です。

「誰に、いつ、現地に入ってもらうか。お気持ちを下げないよう配慮して」という、ボランティア・マネジメントなんて考え方は、みじんもない時代でした。

教壇のNGOの人は、「では、本日ここにいる皆さん。これから、皆さんの現地入りの日程を割り振ります!!」と突然宣言したのです。

「電波少年」というテレビ番組で芸人さんが、目隠しされ、ワゴンに乗せられる企画のようです(あれが始まったのは1996年でした)。

こうして、気づいたら上野発の夜行列車に乗っており、気づいたら奥尻島の対岸の江差港からフェリーに乗り、被災して接岸が難しい奥尻港に降り立っていました。

当時、奥尻島は島をあげてお葬式をあげ続けているような状態でした。

守銭奴の居酒屋ボーイは、やっとことの重大さを気づきました。

島内で最大の避難所となった青苗中学校体育館に配置され、被災者の方々と一緒に住み込み、被災者の方々のためのテントのお風呂の当番を担当しました。

当時の避難所内について書いたレポートが後年で見つかり、ご関心ある方は、こちらをお願いします。

学生2人で避難所の風呂当番をしました(筆者は写真右)

ですが、現地では「ボランティア? なんだ、それは」との被災者の方々からの反応も当初あったのです。

そのたびに、私は「日本では、古来から茅葺き屋根を、人々で助け合って葺き替えたように、島外から助け合いで来ている私たちがボランティアです」と申し上げて、理解を得るようにしました。

青苗中学校の一角に設置された青苗郵便局
救援物資の倉庫となった奥尻高校体育館(筆者は左上隅)

2. 天皇皇后両陛下の慰問

天皇皇后両陛下が慰問に1993年7月27日に青苗中学校体育館にお越しになりました(次の動画の3:35-8:26で当時の映像が見つかりました)。

被災者の方々と膝つきでお話しされて、体育館から両陛下が出て来られました。

地元民の方々が表で並ぶ中に、「風呂当番」の名札をつけた私も立ちました。

すると、天皇陛下が「風呂当番をしているのですか」とお声がけをくださり、黙って私は深く礼をしました。

目の前におられる陛下の肉声を伺い、22歳の私は「2600年以上の時の流れとは、こういうことか」と実感しました。

離島回りや、山間部を精力的に回り続けられた両陛下のお心に、共感ばかりです。

3. 被災した子どもたちとの関わり

大人たちは被災して、深く落胆をしていても、容赦無く余震が続く日々で、高度の緊張をし続けておられました。

ですが、被災した子どもたちも、苛烈な日々だったのです。

「遊び相手になりたい」と、島外から来た学生ボランティアのメンバーたちは、子どもたちとサッカーを青苗中学校の校庭でしました。

そのサッカーに、球技が苦手な私は加わらなかったのですが、夕方に宿舎の奥尻公民館に帰ってきたメンバーの一人が、目を涙で真っ赤にしていました。

「奥尻に来て以来、救援物資班で活動して、荷物作業が多かったので、被災者の方々と接点が少なかったが、今日サッカーをして、子どもたちがどんなに辛かったかと、やっとわかった」。

ジブリ映画の「となりのトトロ」で、ネコバスが出てきますが、私は小学生たちを、代わりがわりおぶって、全力で走るという、ネコバスごっこを青苗中学校の校庭でしていました。

当時の子どもの一人がその記憶を持ち続けてくれていて、震災から20年となる2013年に奥尻島青苗地区で再会できました。

毎日新聞(2013年9月16日)から引用

4. 奥尻島が人生の原点となった私たち

当時の学生ボランティアで入った私たちにとって、奥尻島は人生の原点になりました。

当時の学生メンバーの方々で、井上英之さん(スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 共同発起人)や、小澤幸子さん(医師、ハイチ友の会代表)、高田健二さん(JICA職員、群馬県甘楽町役場地域魅力化特命室室長)とここですぐお書きできる方々はごく一部で、奥尻から国内外に飛躍されている方々が相次いでいます。

奥尻島は日本のソーシャル・イノベーションの原点の一つと申しても過言ではないと思います。

5. 2023年は日本にとり重要な年

奥尻で多数のボランティアが爆速で現地に集まるという流れが生まれ、阪神・淡路大震災(1995年)以降に引き継がれます。

ボランティア元年は1995年です。

1998年、熱狂のうちに成立したNPO法は、阪神・淡路大震災以降のボランティア、そして市民社会の重要性が、国の立法につながったという画期的な成果でした。

ですが、「社会貢献の活動では食えない」という流れが続き、それを私は変えたいと、2000年代に日本で始まった社会起業家ムーブメントに身を投じ、例えばWikipedia日本語版で社会起業家の項目を2005年に初めて設定しました。

そして、起業支援と事業再生支援に2003年の独立以降、明け暮れていきます。

東京新聞(2013年10月7日)から引用

今年2023年は、北海道南西沖地震から30年、NPO法の成立から25年という、日本にとって大変重要な年です。

6. 来週、奥尻島の現地にいきます

奥尻島に1993年の夏から冬の訪れまで住み込み、しかし1994年春の新卒の就職後は、なかなか伺えない日々でしたが、2013年に続き、2023年の今年、奥尻島に私は伺います。

来週7/10(月)から7/14(金)まで島内におります。

7/12(水)の献花イベントに列席して、一参加者としてお花をたむける他、もし当時の方々にお会いできれば、幸いです。



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