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高山羽根子『首里の馬』

舞台は沖縄。主人公・未名子にはふたつの顔がある。

ひとつは、その地で余生を過ごす民俗学者・順さんの「資料館」で、順さんが収集した膨大な数の資料の整理を手伝うこと。資料になにか価値があるのか、未名子は知らない。ただ淡々と、資料に対応したインデックスカードを確認し、傷んでいれば補修する。

もうひとつは、世界のどこか、遠い場所にいる人々にオンライン通話でクイズを出題するオペレーターの仕事。回線越しにクイズに答える相手が何者なのか、そのクイズのやりとりがどういう意味を持つのか、未名子は知らない。やはり淡々と、出すべきクイズとその正解を読み上げ続ける。

乱暴にまとめれば、未名子は、託された知識を誰かへとつなぐ、という使命を担っている。未来の、その知識を必要とする、いるかもわからない誰かへ。あるいは、眼の前の、誰かもわからない誰かへ。あらかじめ決められた知識の流れがあり、未名子が変えられるものは少ない。インデックスカードに勝手な解釈を付け足すことはできない。クイズのやりとりのデータは時間が終われば破棄され持ち出すことができない。

それでも、知識が流れるというのは、水が水道管を流れるのとは違う。未名子はクイズの出題で知った北欧のエレクトロミュージックを聴いたりする。雑談で馬の扱い方を教えてもらったりもする。知識は滲み出し、未名子の世界をほんの少しだけ変えていく。

しかし、知識は無色ではない。知識を扱う、という行為自体が色眼鏡で見られ、気味悪がられる。そのことに未名子は悩んでもいる。

未名子や順さんのような人間が、世の中のどこかになにかの知識をためたり、それらを整理しているということを、多くの人はどういうわけかひどく気味悪く思うらしいということに気がついたのは、あるときいきなりじゃなく、徐々にだった。

未名子は最終的にある決断をするが、それがハッピーエンドなのかはよくわからない。気味が悪い、という気もする。知識そのものがそうであるように、この物語もまた曲がりくねっていて、答えは読者に委ねられている。

(カバー画像:https://flic.kr/p/6Zn4iz


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