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バンコク・アユタヤ

バンコク

11月の初め頃、私はエアアジアの固い椅子の上で乱気流に揺られた後、一抹の不安とそれを覆い隠すように湧き出る好奇心と共にバンコク・ドンムアン空港に降り立った。まさにこの瞬間26日間の東南アジア周遊の旅がはじまったのである。予算に余裕がないわけではなかった、だが今回の旅のコンセプトはローカルを感じること。それ故に私はタクシーの声掛けには目もくれず、バスを待った。1時間の待機と数十分バスに揺られた後、バックパッカーの聖地、カオサンロードに私はいた。二段ベッドが4,5台ならぶ数百円のドミトリーへのチェックインを済ませた。ふとタバコでも吸おうと外へ出ると、そこには自由とも享楽ともとれる光景が広がっていた。思い思いに夢を語り合うもの、大麻をふかし悦に浸るもの、そして私のように一人の時間を愉しむものがそれぞれを邪魔せぬように同じ時間を過ごしていた。日本を離れて久しいものの、どこの国もグローバリズムの波と共に画一的になっているように感じる昨今、このような光景は刺激的かつ居心地の良いものであった。明くる日の目的地はアユタヤ遺跡、朝早くの列車に乗っていこうと決めていたから、早く寝床についた。

アユタヤ


列車に乗り込むと偶然にも目の前の席に二人の日本人男性、同世代か少し年上かと見受けられる。2,3時間ほど談笑した。彼らはさわやかで如何にもという様な日本の青年であった。夕食を共にする約束をしたのち、到着した。彼らとはお別れし、私はスクーターを借りた。観光もさることながら、見知らぬ場所でのツーリングというのも良いものである。しかし、タイは良くないかもしれない、標識がタイ語で何が書いてあるのかわからないからだ。苦戦はしつつも、日本とも縁深いアユタヤ朝の遺跡群を見学した。私にとってそれらは非常に興味深いものであった。(私が歴史好きなのは抜きにしてもだ)なぜならば、ほとんどそこにいる人々はヨーロッパ圏から訪れているのである。もちろん中国人がこられない時期故にアジア人が少なく見えることもあろう。しかし、そこにはほぼアメリカ人はいなかった。歴史がある国の国民がそれを好むのか、それともその反対か、その真偽は分からずじまいだが、そんなこともこのような旅の発見であろう。そんな思いにふけながら、バンコクへと帰り、先ほどの青年らと夕食を共にした。
三日目、この日の夜に次の目的地への列車を取っていたから、それまではバンコクの都市部を散歩でもしようと決めた。正直、そんなに感想はない。ほかの東南アジア諸国の中心に比べればいくらか発展していて、それでも東南アジアの風情はかすかに残っている、そんなような街並みだった。東京出身の私は、これらの都市が東京みたいにはならないと常々思う。どんなに高い建物を建てても、どんなに綺麗な道路を作ってもだ。そんなことを考えながら散歩した。夜も更け、駅へと向かった。まだ、いくらか時間はあったからセブンイレブンでカオマンガイを勝って食べた。

寝台列車


23時頃だっただろうか、寝台が取れなかった私は二人掛けの席へと乗り込んだ。今考えると14時間の移動を寝台なしで行ったのはすごいと思うが、この選択は間違いではなかった。最初の数時間は乗りあった欧州の人々やタイ人の人々と談笑して過ごした。そこで私はコムローイ祭りの存在を知った。勿論名前は知っていたし、ラプンツェルのモチーフになったというくらいの予備知識はあったが、如何せん流行りものに興味がなく、時間があったら見にいこう程度に考えていた(この祭りが寝台を取れなかった原因という事も知らなかった)。何時間か経った後、ほとんどの乗客は眠りについた。私はタバコが吸いたかった。喫煙者の悪いところである。トイレでも行こと席を離れると、電車のつなぎ目部分に行った。というのも、そこにはタバコを吸う幾人かのタイがいた。何も迷う事なく次の瞬間にはそこにいた。皆思い思いにタバコや大麻を愉しんでいた。こんなこと日本の新幹線で起こり得るはずもないから、少しだけワクワクしたのが記憶に新しい。それから到着するまでの間、彼らとは幾度となく共に時間を過ごした。あの時、タバコを吸いながら見た田舎風景の中に上ってくる朝日は比類なく美しかった。
そんな風にしていると、もう到着まで一時間程度。ほかの乗客の顔も疲れは見えるものの幾分明るい。そして到着した。そう目的地はチェンマイだ。




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