初恋

最初に誰かを好きになったのは小学生の頃だけど、初恋、という言葉でわたしが一番に思い出すのは、中学一年から二年にかけての演劇部の恋だった。

演劇に興味を持ったのは朗読が好きだったのとドラマが大好きで当時から物語を書いていたからだったのだけど、独りでそんなところの門を叩くのは勇気が要りすぎて、仲良しの子を三人も誘っての入部だった。顧問の先生が大学で演劇学をやっていたとかで元々本格的な指導で本格的な劇を行う部だったから、入部希望者はかなり多かったように思う。

そこで一番人気だった二学年エースがわたしの好きな人、ではなく、その人はエースの一番の仲良しの男子だった。優しそうな栗色の目と茶色い髪をしていて、まさかの同じ誕生日だった。性格も似ていて、わたしはその先輩とよく二人で長話(彼の飼っている犬や好きな食べ物や本の話)をした。一年時はそのようにして普通に楽しくすぎた。

翌年の5月、コンクールの舞台でシェイクスピアをやることになり、キャストのオーディションがあった。希望のキャストの台詞をピックアップし、複数の指導教諭の前で一人一人それを演じる。

部員は多かったが、演劇よりエース男子目当ての女子も何割かいたし、わたしが誘った友達三人も初めから裏方志望。なので、金貸し女主人を演じたかったわたしのライバルは同じく二年で同役希望の別のクラス女子、のはずだった。
だがオーディションの結果、指導教諭いわく「レベルが高すぎてキャストを絞れない」との理由から当初の予定と変わりすべてがダブルキャストになり、わたしは希望の金貸し女主人ではなく何故か「嘘つき商人」。しかもダブルキャストの相手はなんと、一年生のときから片想いしていた例の彼だった。

誕生日が同月同日なだけでもすごいのに、まさかのこんな運命ありますか?の展開。しかも本読みから舞台稽古まですべてのキャストを二人でやった上で、二ヶ月後の本番どちらを使うか決定するという。わたしも彼もガチで勝ちにいきたいという状況のなか、複雑極まりない、なかなかに厳しい二ヶ月だった。

二ヶ月後、選ばれたのは彼。そもそもが男性の役だし、わたしは先生が要求する「低くて感じの悪い声」がどうしても出せず、本読み稽古のときからダメ出しばかりされていたが、彼はさすがに上手で、先生の指導をほぼ演技に還元していたから、途中から殆ど諦めてはいた。
彼は決まったあとでわたしのそばに来て、「でもおまえ演技うまかったから、俺結構びびってた」と言ってくれた。きっとそれは彼なりの優しさゆえの言葉だったんだろうけど、それはそれで、すごく嬉しかった。

落ちたダブルキャストは原則として黒子と本番の化粧の手伝いをする決まりで、わたしはその点、相当に役得だったかもしれない。実はわたしが誘った友達の中の一人が彼のことを好きだと大分前から公言していて、暇さえあればやたらと積極的に彼に近付いていたから。わたしの友達ということで一緒に化粧落としを手伝いたいとか衣装もちをやりたいとかいう彼女の申し出を、彼は悉く断った。理由は「ダブルキャスト(わたしのこと)と台詞の確認を集中してしたいから」。
わたしはそれをひそかに喜ばなかったわけじゃないけど、ほんとはちゃんと知ってた。彼はわたしのことが気に入っていたとか好きだったからそう言ったのではなくて、「単に真面目だったから」。

だって彼にはその一ヶ月前から、すでに同じ三年生の彼女がいたのだから。

部活の夜練の帰りに、わたしはたまたま見てしまったのだ。彼が校門で待っていた彼女に笑いかけながら走ってくところ。そして手をつないで遠くに消えてくところ。わたしはその頃には彼と相当に仲が良くなっていたけれど、それだけだったんだとその時気づいた。悲しくてくやしくて、夜道を歩きながら真っ暗なのをいいことにぼろぼろ泣いた。わたしの二年間の恋はそこであっけなく終わった。

翌年3月、彼が卒業するとき、友達は頑張ってボタンをもらいに行っていた。でもわたしは行かなかった。顔も見なかったしさよならも言わなかった。

コンクールの舞台のあと、袖で待っててお疲れさまと言ったとき、彼がひとこと、「ダブルキャストがお前で良かった」と言った。それだけで、わたしは十分だった。

それから二年後。
高校二年生になったわたしは4月のある朝、自分の契約した駅の自転車置場に自転車を停めようとした。そこに鍵のかかっていない自転車が停めてあった。
もう、誰だよ。
急いでいたのでそれを脇へ避けようとして持ち上げて思わず声が出た。
その自転車の名前の欄に、彼の名前があった。手書きで、見たことのある綺麗な、間違いなく彼の字だった。沢山の輪止めのある自転車置場、しかも周りは何台も空いてたのに、よりによってわたしの場所に、昔大好きだった人の自転車。勿論輪止めに名前は書いてないから、彼はそれがわたしの自転車置場だなんて知るわけない。ただ急いでて、いつもは自転車じゃないか別の場所に置いてるのに、きっとその日は時間がなくてたまたま、本当にたまたま、鍵をかけずにそこに置いちゃったんだ。

こんなことってある??

わたしはどうしよう、とすごく迷ったけど自分も遅刻しそうだったし、仕方ないからその自転車をとなりに避けて自分のを置いた。どうか、ふと隣をみて、わたしの自転車の名前に気づいてくれますように。

祈るようにして駅に戻ってきたその夜、彼の自転車はもうそこになかった。がっかりしたというより、なんだか安堵した。だって、彼が仮にわたしの自転車に気づいたとしても、あるいは気づかなかったとしても、それでなにかが始まる訳じゃないんだもの。

それからの一年半、一度も彼の自転車を見ないまま、わたしは高校を卒業してその駅を使うことはなくなった。

今でもその事を、時々思い出す。びっくりするような偶然が沢山あって、もしかしたら、何か深い、縁のようなものがあったかもしれない、懐かしい栗色の目と茶色い髪をした、あの優しい笑い顔を。