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エッセイ / 箱根駅伝に人生の意味をみた

箱根駅伝を観た。と言っても、実家のリビングで両親が観ているのを別のことをしながら眺めていただけなのだけど。

選手たちはとても苦しそうだ。見ているこちらが息苦しくなるほどに。なぜ彼らはわざわざ自分を追い込むんだろう。動物たちが見たらきっと「人間は馬鹿だなぁ」って思うんじゃないか。

そんなことを考えてしまう程度には私は駅伝に無関心だったのだけど、でもふと、人生も駅伝と同じようなものなのかもしれないと気がついた。

駅伝のゴール。それは私のような、駅伝とは無縁の、そして興味もない人間にとっては正直、ほとんど意味のないものだ。そこに自分の時間を、人生を、命を賭けて、文字どおり血の滲むような努力をする。それってちょっと理解しがたいことだ。

でも駅伝選手たちが皆、苦しみと同時に喜びのようなものを感じていることは、彼らが発する雰囲気からなんとなくわかる。命の輝き、といったら大げさかもしれないけど、懸命に走る彼らからはそんなオーラを感じる。そして彼らは引退後もきっと、駅伝に取り組んだ時間を輝かしいものとして振り返るんだろう。

だから大事なのは「何をゴールにするか」じゃなくて、「そのゴールに向かってどれだけ命を燃やしたか」なんだと思う、結局。ゴールはなんだっていい。自分が、自分はそれに命を賭けるのだ、と心から決めることができれば、なんだっていい。そこに貴賤はない。だってそれは自分にとって真実でありさえすればよくて、人と比べる必要が一切ないものなのだから。

スポーツなんて、誰かが勝手に作ったルールにのっとって行われる、ただのゲームだ。見方によっては、かなりくだらないものだ。私も昔、サッカーの試合を見ながら「大の大人がこんなに一生懸命ただの球を追いかけて、ゴールを決めることにここまで一喜一憂してるのって、冷静になるとちょっと滑稽だな」なんて思ってしまったことがある(前提、私は学生時代にサッカー部だったし、サッカー選手のことは非常に尊敬しているのだけど)。それでも、彼らはそのルールを信じることを選び、そこに命を賭けると決めたのだ。それはただのゲームだと知っていながら、決めたのだ。

私たち一人一人の人生の意味も、結局そういうものなんだと思う。人生に意味なんてない、なぜなら結局死んですべて失われるから。それでも、私はこのために生まれてきたのだ、このために命を賭けるのだと「決める」。そして、そこに命を燃やして生きる。そうすれば、その人生はきっと豊かな人生だ。

私も駅伝選手のように、喜びのなかに苦しみが、苦しみのなかに喜びがあるような人生にしたいなぁなんて思う。

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