第二章 秋のおと 3


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 雨はただ降《ふ》る。人がどう思おうと、都合《つごう》が悪かろうがよかろうが、降るときにはただ降る。雨が降ることを嫌《いや》だとか、よかったとか思うのは、人のかんがえであり、判断だ。雨は人の都合には関係なく降る。
 私は学生のころ、新聞配達のアルバイトをしていたことがある。はじめたばかりのころ、雨が降るととても重い気分になった。雨が降ると配達店に新聞が届くのが遅くなる。雨具《あまぐ》が必要になる。新聞が濡れないようにビニール袋をかぶせるなど、余分な手間が増える。雨が降ると仕事が煩雑《はんざつ》になるのだ。だから、雨降りだと気分が重くなった。
 が、ベテランの配達員は雨が降っても文句いわず、ただ淡々《たんたん》と仕事に取りかかることに、やがて気づいた。彼らは雨が降ろうが晴れようが、黙々《もくもく》とやるべきことをやり、時間がかかろうがかかるまいが自分の仕事を終わらせる。雨に文句をいったところで、仕事は変わりなくそこにある。
 私もやがて気づいた。雨降りで気分が重くなろうが、なるまいが、仕事は変わらずそこにある。ただやるだけだ。どうせやるなら、気分を重くしようが軽くなっていようが、変わりはない。気分に関係なく仕事はそこにあり、気分に関係なく雨は降り、気分に関係なく仕事は終わる。好き嫌いをいっていられない。
 いまの私は新聞配達をしているわけではない。雨はあいかわらず、こちらの都合とは関係なく降るが、私の気分は雨降りに左右される。雨が降るとリハビリをかねた散歩に出かけられなくなり、その分回復が遅れるのではないかという気持ちの曇りがあり、気分が重くなる。
 それを振りはらうために、身体を軽くしようとする意識がはたらくのかもしれない。昨日の朝の絵は自分のなかに意識的に作った明るく、暖かく、乾いたイメージを、画紙に乗せていった。しかし、それはイメージであり、頭が作りあげたフィクションであることに気づいた。
 そのことに気づいていた今朝は、頭が作りあげたイメージを捨て、自分の身体が本当に受け取っていること、感じていることをそのまま表現しようと努めた。雨降りの朝の、いまこの瞬間に私が存在している自分自身の生命感。それが手指から、筆をとおして、表出するがままに任《まか》せた。
 それが二枚の絵の決定的な違いだ。
 私は真衣に説明を試みる。

 真衣は絵を見くらべながら、つぶやくようにいう。

「よくわかりません。先生のおっしゃてることはわかるけど、わたしには絵の違いがわかりません。どちらもすばらしい絵のように見えます。わたしも本当の絵を描けるようになるんでしょうか」
 練習しましょう、と私は提案する。

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