第二章 秋のおと 4


   4

 翌日は雨があがっている。とはいえ、多い雲のかたまりが空を速く移動していて、天気は不安定だ。
 ときおりサッと日が射《さ》す、アトリエの窓ぎわに移動させた私の仕事テーブルに、真衣は向かっている。テーブルの上には四つ切りの画用紙が広げられていて、そこにはまだなにも描かれていない。

 真衣は蜜柑色と白の透明水彩をパレット上にほぼ均等に混ぜあわせ、たっぷりと水をふくませた中太の筆で色をすくう。パレットのへりで余分な水分を落としてから、筆先を紙の上に持ってくる。

「なにもかんがえないで」
 と、私はアドバイスする。
「ただ手の動きにまかせるんです。作為を取りのぞいて」
 真衣が絵筆を紙のほぼ真ん中に持ってくる。そして、それをポトッと紙面に落とす。淡《あわ》い肌色《はだいろ》をおびたたっぷりとした水気《みずけ》が、紙の真ん中に広がる。

「その色はどちらに行きたがってますか?」
 と、私はたずねる。真衣はそれを自問しているらしく、焦点のあわない視線は彼女の内側に向かっているらしい。

 私は重ねていう。
「筆の方向は身体が教えてくれます。身体の声が思考に邪魔されないように」
 これは絵を描いているのではない。練習だ。私がふたたび絵を描きはじめたときに、自分でおこなったトレーニングだ。これまでとは違った方法で絵を描いてみることを決めたとき、自分でかんがえて自分ではじめた練習だ。
 真衣はほとんど閉じるくらい目を細めて、懸命に自分の身体に意識を向けている。

「どうですか、動きそうですか?」
 しばらく返事はない。私は待つ。数分たって真衣がささやき声でいう。

「動きません。動けそうな感じがしないです」
「どっちに行きたがっているのか、なにも感じないですか?」
「なにも感じないです。身体の声、ですか?」
「声というか、きざしですね。なにもないですか?」
「ありません」
「もうすこし待ってください。あなたのなかが充分に静まる必要があります。私たちはいつも、頭のなかも身体も騒々《そうぞう》しい状態にいます。いつも思考が渦巻《うずま》き、身体は落ち着きがありません。そのことには気づいてますか?」
「はい、なんとなく」
「自分のなかのノイズをできるだけ消すのです。ノイズが消えて静かになっていくと、自分がどうしたいのか、どのように動きたがっているのかが聞こえてきます。というより、自然に動きますよ」
 話しながら、ふと思いついて、私は真衣に提案する。

「左手を出してください。左手はどうなってますか?」
「なにも感じません。左手があることも忘れてました」

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