第二章 秋のおと 13


   13

 人がなにかをするのに、理由などなにもないのだ、ということに気づいたのは、事件によるゼロリセットからしばらくたってからのことだった。
 意識が回復しても、しばらくは自分で立つことも、起きあがることも、もちろん歩くこともできない状態がつづいた。しゃべることすらできなかった。いや、できなかったというより、しなかったのだ。私はショックのあまり、話す気力すらうしなっていた。医師や看護婦や知人になにか話しかけられたり尋ねられても、ことばを返す気になれなかった。私はただうなずいたり、首を振ったりして、自分の意志をつたえた。
 ほとんど動けないまま、昏睡と覚醒を行ったり来たりしていた。身体のあちこちに痛みがあり、それを訴えると、医師は喜んだ。
「痛みがあるのはよい兆候です。基幹神経が決定的に損傷を受けていない証拠だ。うまくすればかなり回復するでしょう。ただ、いまはゆっくり休むことですね。痛み止めは入れておきましょう」
 と、医師は点滴のチューブを指さした。
 痛み止めのせいか、覚醒してもくっきりとした意識はあまりなかった。ぼんやりしていて、なかば夢を見ているようだった。実際に夢を見た。とくによく見たのは――それは幻覚といってもよかった――絵を描く夢だった。とてもリアルで、絵筆を握って紙に絵を描いている夢だ。その感触は現実そのままで、身体もちゃんと動いているのだった。
 実際には私は集中治療室で横になっているのだった。
「そういう夢を何度も繰り返し見たんですよ。夢のなかではありありと感覚があるんですね」
 私は目の前に手をかざし、指を握ったり開いたりしてみる。いまはたしかに、夢ではなく、リアルな運動がそこにある。麻衣はそれをじっと見ている。

「それで私は思ったんです。こうやって身体が動かなくても、かろうじて死の淵から生還したばかりだというのに、私はまだ絵を描きたいんだな、と。絵を描きたいというのは私の思いとかかんがえとか感情とかではなく、身体がそうしたがっている、ただそのように動きたがっている、ということがわかったんですね。寝てばかりいると歩きたくなるのとおなじことで、書かないでいるとただ絵を描くという運動をしたくなる。その欲求は私のなかのどこか深い場所から立ちのぼってくる。これは理屈じゃないんです。なんのために絵を描くのか、というような平たい設問は、そもそも意味がないんですよ」
「平たい……ですか」
 麻衣の表情がちょっとほころぶのを私は見る。

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