第一章 夏のにおい 20


   20

「どんな感じですか? 自分の息を観察できましたか?」
「ちゃんとできたかどうかわかりませんが、暖かい空気が出ていき、それから新鮮な空気がはいってくるのがわかりました」
「いま、なにをかんがえてましたか?」
「あ……」
 真衣がまた目を大きくする。
「なにもかんがえてなかったような気がする。ただ呼吸のことだけ観察していて……」
「それでいいんです。いまここにいる自分自身に気づきつづけるためには、呼吸からはじめるのがいいんです」
「先生はそれをどこで学ばれたんですか?」
「いろんな本からです。この自分自身への気づきのことをマインドフルネスというんですが、これについては多くの人がいろいろな角度から本を書いています。頭でっかちになりすぎて、いまここを生きることを忘れた現代生活には真の幸福がないことに、多くの人が気づきはじめているんです」
 向こうの木立のなかを、鳥の影がいくつかよぎる。大きさから見て、オナガかヒヨドリか。上下にひらりひらりと羽ばたく動きと、長く尾を引く影から判断して、オナガだろうと思う。そしてたしかに特徴的な濁った鋭い鳴き声が聞こえてくる。
 それを見ているのかどうか、真衣はしばらくだまって木立のほうに顔を向けている。それからふと我に返ったように、私のほうを向く。
「先生は絵を描くときに、そのことだけを注意しているということなんですか?」
「そのとおりです」
 私は大きくうなずく。
 十年前までの私は、絵を描くときに、心ここにあらずという状態だった。そのことに気づいたのは、リハビリが進み、ひょっとしたらもう一度絵筆を持てるかもしれないという希望が見えたときだった。もう一度絵筆を持てるとしたらなにを描きたい? 私は自分自身に問いかけてみた。長い時間をかけて問いつづけてみた。そして、かつての私は自分自身のありようはどこかへ置きざりにして、自分の外側にあるものばかり追いもとめ、技巧をこらして描こうとしてばかりいたことに気づいたのだ。
 それは画商や買い手という、私の絵を「評価」する視線にとらわれた意識が働いていたせいであって、そのために「うける」絵を、「評価される」絵を、人々が美しいとかユニークだと「驚いてくれるような」絵を描こうとばかりしていたということだ。そのことに長い時間かかって、ようやく気づいた。
 では、そういった外向きを意識することをやめてみたとき、私にはなにが残るのだろう。私はさらに長い時間をかけて、そのことをかんがえつづけた。

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