第二章 秋のおと 5


   5

 真衣は机の端に置いていた左手を、ゆっくりと持ちあげる。
「てのひらを上に向けて」
 私はなにをどうするというかんがえも定まらないなか、なにかに導かれて指示を出す。
「そのまま動かないで」
 上を向いている真衣の左のてのひらに、私の右のてのひらをかさねる。おどろいたのか真衣の身体がわずかに揺れるが、手を引くことはない。
 私は右のてのひらに真衣の左のてのひらの温度を感じる。それは私のてのひらの温度よりやや低く、冷たく感じる。そしてわずかな湿度も感じる。皮膚はやわらかく、指の動きが伝わってくる。私のてのひらの温度もまた、彼女のてのひらに伝わっているのだろう。
 私はたずねる。
「左手があることを思いだしましたか?」
「はい。でも……」
「なんですか?」
「今度は左手のことしかかんがえられなくなりました」
 私は思わず笑う。
「こうしているの、いやですか?」
「いえ」
「いやだったらいつでもいってください」
「いやじゃないです」
「左手に意識が行ってしまってますよね」
「はい」
「それを無理にやめようとしないで、そのままもう一度、自分の身体のほうへ、呼吸のほうに注意を向けてみてください」
「やってみます」
 真衣の顔がさらにまじめに、深刻ともいえる表情になる。私のてのひらの下で彼女の指がときおりぴくっと動く。その手は私のものよりずっと小さい。私の背丈《せたけ》は日本人男性の平均的なもので、彼女の背丈は日本人女性の平均よりやや小柄かもしれない。私より小さな、若くて、女性の繊細な手に、このように触れたことはあっただろうか。思いだすことはできない。だれかの子どもの手を握ったりしたことはあるかもしれないが、記憶をさぐってもそのような機会は思いだせない。妻も大柄ではなかったけれど、小さくはなかった。手もこれほど小さくはなかった。
 妻の手の感触を思いだせなくなっていることに気づく。それから、私は「いま」にもどってくることに努める。
「私の手をテコにして、自分の身体のほうに注目するのです。なにも手がかりなく、ただ自分の身体に注目しようとするより、なにかの感触や自分以外の存在を借りて自分に注目するほうがずっと具体性があるはずなんです。つまり、なにかの対象としての自分を見るわけです」
 私の説明が理解できているのかどうか、真衣の指の動きが止まる。彼女の身体から硬さが抜けていくのを、てのひらを通してこちらに伝わってくる。

ボイスセラピー講座(9.19)
9月19日(土)13:00-17:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

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