第二章 秋のおと 12


   12

 私の話を聞いていた真衣のグラスからはまったくワインが減っていない。彼女は息を詰めるようにしている。
「私の話はこれで終わりです。ほかになにか聞きたいことはありますか?」
 身体をかたくしたまま、真衣はしばらく動かない。その瞳は自分の飲みかけのワイングラスをじっと見ている。
 ようやく彼女が口をひらく。
「あの……なんていって……なんていっておわびすればいいのか……」
「おわび? なんのことでしょう」
「こんな話を先生にさせてしまって……」
 私は笑う。
「べつにあなたに話をさせられたわけではありませんよ。あなたに聞いてもらいたいから話しただけです。あなたがこの話を知らないというから」
「そうなんですか?」
「そうです。よかったら聞かせてください、私の話を聞いてどんなふうに思ったのか」
「それは……大変な目にあわれたんだな、と……さぞおつらいことだったでしょうね」
「たしかにつらかったですよ。しかし、いまとなってはよかったなと思ってるんですよ」
「よかった?」
 真衣の目が不審で光る。私はその光を受け、そして流す。
「もうすこし飲みましょう。大丈夫ですよね」
「あ、はい」
 真衣は自分のグラスを口にはこび、ぐいと飲む。私も飲む。アルコールの作用がゆるやかに顔面の、とくに上半分を、微弱な麻痺でおおいはじめている。
「よかったというのはこういうことです。暴力事件はたしかに、私を肉体的にいちじるしく傷つけました。それは物理的には大変なことでした。しかし、それは同時に、私を商業的システムの世界から切りはなしてくれたのです。いささか乱暴ではありましたが。お金や名声のために絵を描いていた私を、強引になにもない、なにもできないゼロリセットの場所へと連れもどしてくれたんです」
「ゼロ、リセット?」
 私はうなずく。そしてゆっくりとワイングラスを口に運ぶ。つられたように、真衣もワインを飲む。
「私は自分がのみこまれていた商業システムの世界から力づくで切りはなされ、自分ではまったくなにもできない赤ん坊のような状態に引きもどされました。しかしそのことは、自分が絵を描きはじめる前の時点にもどったようなものだったのです。私はあらためて自分に、そもそも絵を描きたいのか、描きたいならそれはなぜなのか、私はなんのために絵を描くのは、という原初的な問いができる時点に立ちもどることができたのです。それは私にとって大変貴重で、よい機会でした」

羽根木の家で韓氏意拳初級講習会(10.4)
内田秀樹準教練による韓氏意拳の体験&初級講習会@羽根木の家を10月4日(日)に開催します。自分の未知の身体に出会えるユニークで注目の武術です。どなたでもご参加いただけます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?