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noteを書かない理由、じゃなくて目的

せっかく有料課金始めたのに、毎日書こうとすると息苦しくなってきてしまいどうにも続かない今日です。でも、そこには理由じゃなくて達成すべき目的があるのでそれについて少し書いていきます。

我が家が小1と年中の男子がいるので、わたしが家にかえってお風呂にはいろうとすると、すでに湯船はドロドロになっておりとても命の洗濯などできる状況がありません。仕方なしにシャワーですまして、翌朝5時ぐらいにもそもそ起きてお風呂をはたいてお湯をくみ直してゆっくり読書しながらはいっています。すると、ほかほかになってまた眠くなるというのを繰り返します。いいのか悪いのかわからないけど、それもいいのかもしれません。

長湯する時に役に立つのが、Kindleの読書です。内田先生のデビュー作の「ためらいの倫理学」を読んでます。ちょっと長いですが、引用します。

 戦後、「我々が今日供述している自由や民主主義や繁栄」は、自国の敗北と敵国の処理がもたらしたものであるちう敗戦国の「ねじれ」感覚を、日本はドイツと共有しているはずである。しかし、ドイツは「この『ねじれ』を中核にかかえ」て、たえずその「ねじれ」を意識し、言語かし、それをどう処理するか苦闘しながら戦後を過ごしてきたのに対して、「その『ねじれ』が日本では、『ねじれ』としてすら受け止められていない」ままに便々と半世紀が流れた。「ねじれ」を感じしていないということは、「主観的にはすっりしている」ということである。「ねじれは」は一人の人間が矛盾を抱え得こむから「ねじれる」のであって、矛盾や対立が二人の人間に分割されれば、そこには「すっきり」と対峙する二人の人間がいることになり、内的な「ねじれ」は消滅する、簡単な算術だ。
 これが戦後日本が採用した「ねじれ」の処理法である。対立するふたつのイデオロギー、ふたつの党派の矛盾のうちにすべてを流し込んでしまえば良いのである。
(内田樹「ためらいの倫理学」位置No. 1000〜)

なるほど、とお風呂のなかでぶくぶくしまった。つまり内的なねじれがないからいま自分は文章を書けないのかと、いやそれだと原因論だ。目的論で考えると「内的な矛盾したふたつの『ねじれ』を一人で受け止めない」という目的を果たすために文章をかかないのである。

日本語は古くは和歌といえば掛詞といった二つの意味をしめすぐらい内的には矛盾を許容していたはずだ。しかし、戦後そのようなものをなくすことで、すっきりとした社会を構築したのんであった(ほぼ妄想)。

「不完全な自分である」と「完全な自分である」という「ねじれ」を受け止めたくないのが私の目的なのだろう。なのでともかく「ねじれ」を受け止めてみるところからはじめてみる。

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