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中込遊里の日記ナントカ第78回「浮草の根っこ」

(2015年2月7日執筆)結婚すると決めたのは、2014年の7月末、利賀村の演劇人コンクールの滞在中だった。相手からの熱望がその場であったわけではない。結婚相手は東京にい、離れたところにて、私が心のうちで、一人で、勝手に決めた。コンクールが終わって東京に戻り、結婚しようと思うと告げた。了承された。

自分のすることといえば演劇しか信用しない性で、演劇でない場で出会った男性と恋することもあれど、毎日に嘘をついているような気がして、浮ついた時間しか保てずにいた。私は情熱的というよりもトンチンカンなのだと思うのだけれど、日常と演劇とを切り離せずに毎日を過ごしているので、「ところで演劇の方はどうなったの」などと蚊帳の外で男性に発言されると目眩を起こすという大変な性質である。こちらとしては、それ程までに、男性に期待をしているのである。ともかく寂しがりやなのだ。

だから、劇団で一緒に仕事をできる男性と恋愛が始まった時は嬉しかった。もちろん、嬉しいばかりではなく、様々と行き詰まりがあったけれども、年月を重ねるごとに、だんだんと流れが出来、関係が丈夫になっていった。お互いに温かい気持ちを持っていたし、育ちが似ていたから、いくら根無し草の生活だとはいえ、結婚する方が良いし、このまま寄り添って仲良しでいるばかりでなく、形にして家族を作った方が良いと共感してはいた。

とはいえ、なんのあてもない未来、理想や志は高けれど、保証はなし、もちろん先立つ物もなし、どちらかにまともな稼ぎがあればまだしも、根無し草を選んでのうのうと生きて、また、そういうところが気の合っているのだから、どうにもならない。一方、無理に結婚という制約など設ける必要もないのだが、教員の両親は実直、祖母と祖父はまったく賢い人で、結婚して、可能な限り子どもをもうけて血筋を繋ぐべきと説かれて成長してきた中込家の一人娘は今更その性質を変えられず、その能力もないのに責任感だけは強いので、どうにかせねば、と、30歳が近づくにつれて考える時間が増えてきた。(相手の方はのんびり屋で、そんなことは全く思いもしないようである。)

それとは別に、劇団も、自身の活動も、仲間の人生も進んでいって、計算してそうしたわけではないが、2014年の利賀村での作品「弱法師」があるひとつの契機となったようで、目に見えて俳優たちがピリッとなった。これも他者との出逢いで、相性の良いスタッフのおかげであるし、主演をつとめた花村雅子という俳優の存在はとかく大きい。

私は私で、演出家として生きる覚悟があると口では言いつつも、作品に反映するのと口に出すのとでは別にて、「弱法師」の出来はまったく大したものではなく、だからといって、ここで劇団をバラバラにするのはあまりに口惜しく、それどころかかえって愛しさが増し、このまま一緒に劇団員と一つ屋根の下で暮らしていけたらいいとまで夢想した。家族のように、演劇を作っていきたくなった。それ程までに重たいものでありたい。

夫となる音楽監督の五十部は実に不思議な人で、情熱的な創作者であり、冷静なスタッフであり、かつ、良識のある観客でもある。それでいながら、私のことをきっちり女として見ているので、まったく切り替えをせずに済む。もともと切り替えなどなく、晩酌をしながら今日のニュースをぼんやり見ていると思ったらなんの脈絡もなしに「それで稽古の進み具合だけれども」などと話し出す、とっちらかった脳なので、それに対応してくれるのは本当に有難い。なにより、生活している時も、稽古場にある時も、大変に楽しそうなのが好い。生活では私に懐き、いつも笑顔。稽古場ではその朗らかが全体に向けられる。私は彼に比べるとよっぽど根暗なところがあるため、場所や時を選ばず、彼の呑気さは大いなる励ましになる。

そういう気の置けなさがあったので、「弱法師」をきっかけに踏ん切りをつけるのも私の中で納得がいった。かねてより、五十部の方は、その呑気さをもって「中込さんさえ好ければ」いつでも受け入れたのであって、私の方で言い出せば叶う契約。それを、2014年夏が押したのは、女20代最終局面という思い入れと、作品にまつわる人間関係の妙である。結婚はタイミングだと、経験者に幾度も聞いたことがあるが、まったくそうだった。

それにしても、一人だけ、この人だけと決めるのは、たいして面白いものでもない、と思う。男の人と結ぶにしても、この場合は彼、この側面では彼が時分の花と選ぶのが真っ当と感ずる。ひとつところに身を置く勇気を、世間の人は、どうやって手に入れているのかと不思議だ。若しくは、婚姻したからには根をどっしりと張るというのは、思慮浅く経験のない私の思い込みなのかもしれない。先達たちはみな格好良く見えるが、内部は他者からは判らぬだろう。

浮き草は浮き草なりに7~8本は根があるそうだ。ただしそれは土に届かず浮き沈みしているものであるようで、か細い根が水中で数本まとまってゆらゆらと命をつなぐ使命を担わされているかと思うと、いじらしいような、心細いような気分になる。と、そのように意識するのも人間の勝手な感情移入、浮草は浮草なりに無我で生かされているのだろう。そう思えば、私のある程度の決心も、自然の摂理だと教えられる。

劇団も家庭も、危機・嬉々とが繰り返すものなのだろう。失敗を恐れて、また、未来への不安と現状の充たされを抱えて動けずに留まる太い根もあり、いずれは終わる人生、いずれは終わる血筋と、刹那に身をゆだねて、か細い根を揺らし栄養摂取するもあり、どっちもどっちで、焦がれたとしてもその報いはなく、選べるものでもないように思う。いずれにせよ、私のような世間知らずが生かされていることは有難いことだ。だから、私は、五十部と生きる。

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