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プラスマイナスゼロだとしても

幸せって相殺されちゃうのかな、と不安に思って、悲しくなる出来事があった。わたしじゃなくて大切な人について、の話なんだけれど。詳しくは書けない(書かない)けれど、わたしとの出来事で、その人たちはとっても幸せになったと言ってくれた。幸せそうに笑っていて。本当に今まで見たことがないくらいの笑顔だった。その少しあとで、とある出来事があって、その人たちは悲しむことになった。悲しいと言って、やるせないと言って、そうして泣いていた。

あれほどに嬉しそうな顔と、こんなにも落胆した顔。人の感情が様々であることは分かっているはずなのに、受け入れられない、と思ってしまった。できればこの現実を拒否したいと思ったら、わたしも泣けてきた。

嬉しいことと悲しいことはいつも順番にやってきて、どちらか一方が続くことはない。それは十分に分かっているつもりである。でも、あまりにも彼らの沈んだ姿を見て、悲しみの渦中の中で、いつかの幸せだったことがちゃんと勇気になっているのだろうか、心の支えになっているのだろうか、と思って不安になった。

わたしがその人たちに与えた勇気や、幸せを凄かったものだと言いたいのではない。ただ、例え、良いことと、そうではないことが順番にやってくるのが人生だとしても、どうか相殺されないでと思って、強く願った。

幸せなことが続くと、今度は何か大変なことが起きてしまうのではないか、という感覚は誰にでもあるだろう。わたしにもある。逆にちょっと苦しいことがあったとしても、あとから幸せなことがやってきて、元気を取り戻すこともある。

大事なことは、それらは決してひとつの桶には溜まっていかないということ。それぞれの桶に溜まっているから、幸せが溜まる桶は、ずっと幸せのままなのだということ。

わたしの好きなドラマの中でこんな台詞がある。

「人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし、5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて、今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。」

「大豆田とわ子と三人の夫」より

この場面は今わたしが話しているような内容とは全然違くて、幸せについて語ってるわけじゃないのだけれど、わたしはこの台詞を聞いたとき、ああ、過去ってもう過ぎちゃった”時間”じゃないんだなあと感じた。ひとつひとつ、その瞬間瞬間は”場所”で、場所はなくならない。ずっと今もある。そう思ってから、時間が過ぎていくことや、誰かとの別れももう寂しさを感じることが少なくなった。いつだって、今だって、あの”場所”にいつかのわたしがちゃんといる。いつかの彼らがちゃんといる。

この考え方はわたしが今考えていることにも当てはまるのではないかな、と思うのです。

幸せだと思えたあのときの出来事は、いつかの勇気になるとっておきの宝物。だから絶対に相殺されちゃいけないんだ。もちろんその分、つまり苦しみも続いているということ。負の出来事だって、良い出来事を使って無かったことにすることは出来ない。でもその”場所”には戻らなくてもいい。離れていくことができる。忘れることもできる。無かったことにはできないとしても。それから何より、幸せは、不幸だったことを打ち消すためにあるんじゃない。わたしはそう思うのです。

どうしようもなく悲しい日には、到底幸せなことを思い出すことだって出来ない。理不尽なことばかりの社会の中じゃ、いいときの記憶など色褪せていくのかもしれない。でも、忘れないでほしい。その場所にいるわたしは笑っているよ、ちゃんと今も笑っている、ということ。今が深い底にいるとしても。

目の当たりにした悲しみがあまりにも大きすぎて、あれ、幸せとそうではないことって相殺されちゃうんだっけ…って少し不安になって、考えたこと。わたしの中の結論はそうではなかった。ひとつひとつ、ちゃんと残っていく、続いていく。これはわたしが守りたい価値観のひとつかもしれない。

大切な人が悲しいのは何より嫌だから。だから、読んでいるか分からないけれど書きました。いろんなことがあるけれど、ひとつひとつの記憶は、ひとつひとつの気持ちは、その人だけのもの。誰にも消されちゃいけない。プラスマイナスゼロになるように世の中が出来ているのは、両方の桶の重さでバランスを取るためなのではないかな、と思うのです。決してテトリスみたいに揃えて消していくためじゃない。

それでいつか、幸せじゃないほうの桶のことも、愛おしく思える日がやってきて、全部ちゃんと自分の荷物にできたらもっといいのかも。

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