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洞泉寺遊廓 旧川本楼 #02 残された資料からわかる従業員のこと

1.旧川本楼に残された資料について

 前回の記事で、奈良県大和郡山市洞泉寺町にある、旧遊廓旧川本楼には大正期の建物と、遊廓経営に関する資料が残されているとお話ししました。その資料とはどのようなものだったのか、2020年に行われた市職員の講演会資料を用いて簡単に紹介したいと思います。
 まず、資料点数ですが、図1のように2019年10月時点で37点と説明がありましたが、その後整理が進み現在ざっと100点くらいに増えたと聞きました。点数を見る限り少ないように見えますが、帳簿類はかなりのページ数があるようです。

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↑ 図1 又春廓川本楼-遊郭遺構の保存と活用-(山川均2019)より

2.こまめにつけられた帳簿の秘密

 それではなぜ、こんなに多くの帳簿や資料が残されていたのでしょうか。当時のは、マメな人が多かったからでしょうか•••。いえ、それは少し違います。実は、この謎を解くには、明治維新後に発布された「公娼制度」について知っておく必要があります。
 明治以降、遊廓は国が管理する性売買施設となり、ここで性売買を行う女性は公娼、つまり「公的な娼婦」となり、国が認めた鑑札(許可証)を持っています。鑑札はその地域を管轄している警察署に届けることで発行され、公娼は厳重に管理されているのです。
 娼妓になると鑑札登録や月々の更新料のような形で、賦金という税金を納めることになります。税金を納めるのが嫌で鑑札を持たない娼婦は、私娼として厳しい取り締まりの対象になりました。
 また、楼主が遊廓営業で儲けた所得にかかる税金もあります。この税率などは時代によってどんどん変わっていくので、ここで詳しい説明は省きますが、こう言った各種税金取り立てのために帳簿が大変重要だったのです。特に、帳簿のうち遊客名簿は警察署において不正がないか、不審者がいないかこまめにチェックされており、サボることができなかったと考えられます。

3.娼妓名簿から見える女性たちの素顔

 さて、上掲資料の中の「娼妓名簿」に注目したいと思います。この名簿には、そのままズバリ性売買を行う娼妓の名前、本名、本籍地、父母の名前、なぜ娼妓になったのか、前職、年限(何年契約で雇用されたか)、娼妓になる際の借金の金額(前借)、紹介人(女衒)名などが事細かに記載されています。もちろん、警察署に登録した鑑札番号も記載されています。
 この娼妓名簿を詳しく整理し読み解くことで、多くのことがわかるようになります。以前の説明会で使われた資料に「旧川本楼の娼妓名簿に記載されている娼妓について」の項目があったので、一部を引用して紹介します(図2)。

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↑ 図2  旧川本楼(町家物語館)の概要(大和郡山市都市計画課2020)より

 いかがでしょうか。娼妓名簿を見ただけでも、遊廓経営に関わるこんなに多くのことが分かります。
 注目すべきは娼妓の年齢層です。大正12年当時の遊廓では娼妓は18歳以上と決められているため、18歳〜20代前半が多くなっています。彼女らの出身地は女衒(ぜげん)と呼ばれる職業斡旋人の人脈に依るため時期によって異なります。この頃は北陸出身者が多いようです。
 また、川本楼で仕事を始める直前の職業は、別の地域の遊廓で娼妓として働いていた(転籍してきた)が最多で、酌婦や芸妓がそれに続きます。実家で家事手伝いをしていたが、生活苦のために娼妓になった女性も幾人か居て、この時代はまだ、親の借金のために娼妓となった女性が数多く居たことを物語っています。さまざまな理由によって経済的に困窮し、家族のために前借に縛られ数年間働き続けなければならない娼妓たち。「娼妓名簿」は彼女たちが置かれた立場やその嘆きが一番ダイレクトに伝わる史料かもしれません。


4.従業員や遊廓経営の様子も詳らかに

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↑ (写真1)旧川本楼内部 娼妓の部屋3畳+板間

 その他にも、大正12年ごろの旧川本楼の様子が窺える記述もあります。たとえば、「旧川本楼には三畳の部屋(写真1)が14室、4.5畳の部屋が2室あるため14人〜16人の娼妓が働いていた」と町家物語館ではガイドをされていますが、この娼妓名簿からは、娼妓の人数は最多で12人、平均は10人未満と言うことがわかります。

 また、「娼妓が危険にさらされた時のために男衆がいた」ともガイドされていますが、男性従業員は一貫して雇われていないことも図2のデータから分かります。もちろん当時は、遊客男性の一方的な思い入れによって無理心中事件があったり、娼妓に危険が及ことが少なからずありました。しかし、何か問題があった際には洞泉寺遊廓内の組合によって処理されており、娼妓と恋愛トラブルになる可能性が増す男性従業員を敬遠していたのではないかと思われます。(※心中事件については、別項で大正期〜昭和初期の新聞を例に紹介していきます。)
   男衆がいないのにも関わらず、大きな法被(写真2)が展示室にあるのはなぜだ?という声が聞こえそうですが、この法被は楼主の川本マスオ氏のものであることが分かっています。

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↑ (写真2)旧川本楼に展示されている法被。下部にマスオの増の字がデフォルメされている。

 次回は、帳簿のうち遊客名簿からわかることを紹介します。

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※今現在、川本楼(町家物語館)に常駐しているのはシルバー人材センターの方達です。この方達は正規の学芸員、市の職員ではない人たちで、悪気なくイメージ先行の裏付けのないガイドをしており、歴史学に基づいた説明がなされていないため、多くの問題が指摘されています。現地での説明と相違があるのはこのためです。

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