哲学専攻の限界大学生が、ハイデガーを雑に解説してみた。

ハイデガーは19世紀〜戦後の西洋哲学の一大潮流であった「実存主義」の代表的な人物です。彼の哲学を一言でいうと「人が在るとはどういうことか」です。
彼は私達人間を人間ではなく、「現存在」と呼びました。現存在とは、他の存在者と並列に存在するようなものではなく、私自身の存在そのものが、私の存在を、その存在において了解している状況です。そして、現存在はいずれ必ず死ぬ存在です。そのことも、現存在の状態において自ら理解しており、いずれ死ぬと分かっていながらも生きている存在が、現存在です。そしてハイデガーは、現存在はいずれ死んでしまうがために、世界のあらゆるものを「道具的存在者」として気遣うと言います。例えば、車に乗ってどこか遠いところに出かけようとするとき、その車の材質は何で、どのような仕組みで車が動いているかなどということは、本質的にはどうでも良くなります。私が移動するための道具として、車という世界の広がりを捉えます。そしてその認識を、人間は世界すべてのモノと行っています。すべてのモノとの道具的な交渉によって、結果的に死へ向かう自分自身を気遣っているのです。この、たった一つの現存在対世界の森羅万象の繋がりによって成り立つ現存在を、「世界内存在」と彼は名付けました。
ですが、現存在は私一人ではなく、あなた、彼、彼女と他にも沢山存在します。そして彼らにも同じように気遣うのですが、それも結局は「私」のための気遣いです。いいことをしてあげようとか、イラッと来たけど殴らないでおこうとかも、全ては自分が可愛いから、自分のために気遣っているのです。
しかし、現存在はいずれ死ぬということを理解しているので、その死から来る苦しみや悲しみを直視しなければならないはずです。私のために他人に気遣うというのは、その苦しみや悲しみから目をそらす、非本来的な存在です。生きているときに楽を目指して行動することは本来の存在ではありません。この存在を彼は「世人」と名付けました。私達は普段家族やその他コミュニティで集団を作り、何か同じ楽に向かって生活を行っていますが、それは死を忘れようとする非本来的存在であるということです。
この、世人が死を忘れようとする行動としてハイデガーは「空談」「好奇心」を挙げています。空談とは簡単に言うと、中身のないおしゃべりのことです。本来人間が発する言葉というのは、最終的な死が根底にある、その状況を了解した上で出てくるものです。具体的には、詩、小説、歌、のようなものでしょうか。これらは自分の死という限界を了解した上で行われる、創造的な言葉です。(もちろんそうではない詩や小説〈空文〉もあるでしょうし、例以外の創造的な言葉もあるでしょう。)それに対して、例えば「今日めっちゃ暑いなあ」みたいな言葉は、死を考慮して発せられた言葉ではないのです。そして好奇心も同じです。世人の中での流行や気分の動きによって、先程の道具的存在者への気遣いを失ってしまいます。世界内存在であるはずの現存在が、その世界との了解を得られない、つまり、これも私という死ぬ存在に目をそむけているということになります。
この状態を抜け出す鍵は「不安」だと言います。不安というのは、恐れではありません。恐れというのはなにかの対象に向けられた感情です。地震によって津波が来るかもしれない、などは、恐れに入ります。それに対して不安というのは、自分が死ぬという限界から来る、内側から発生する根源的なものです。普段私達が何気なくしている世人的な生活をすべて崩壊させる死を想像して、不安になるのです。
ですが、死というのは絶対に実感することはできないものです。仮に身の回りの誰かが死んでしまったとき、人の中に喪失感は現れますが、その死を代理することは誰にもできません。自分自身が死ぬまで、死を理解することはできないのです。そして、人間は永遠に完成することのない「未了」の存在だと言います。物語のように起承転結はなく、どんなに人気者になっても、お金を稼いでも、人間の完成とはならない。その、完成の前に訪れる死は、いつなのか分かりません。いつでも死んでしまう存在、それが現存在なのです。
ではどうすれば良いのか、ハイデガーは死を「先駆的に了解」しなければならない、と言います。そしてその時に重要なのが「良心」です。この良心は、罪を犯したとか、欲望に負けたとかということとは関係ありません。彼の言う良心とは、自己の内部から発生する「責め」のことです。自分の今までの生活に対して「責め」が人間の内部に存在することによって、自分自身の死へ先駆できると言います。
先駆できたらどうなるのか。今度は「到来」がやってくるのだと言います。これはつまり、先駆によって了解しようとした、本来的な死ぬ存在である私にたどり着くことができるということです。そしてたどり着いた瞬間に、死ぬことを理解して、その死によって現存在は打ち砕かれます。キルケゴール的な言葉を使うと、「絶望を了解」することができるのです。この了解を得て過去を振り返ったとき、その私自身の過去を本質的に了解できると言います。俗っぽい言葉を使うと、「最終的なゴールである死を知ることによって、自分の過去の価値に気づくことができる」のようなものでしょうか。ですが、死はゴールではなく、未了の存在である私を何の前触れもなく分断する、悪く言えばリタイアさせる存在です。「いつか来るリタイアを不安と責めによって了解できる」というのが一番ニュアンスが近いかもしれません(これはあくまでも私の出した例ですので、正確には異なる可能性があります。)
そして、この過去を本質的に了解した状況で、私は現在に戻ってきます。ですが、現在というのは正確には存在せず、常に過去になり続けています。そしてその過去を瞬く間に見続け、再び現在に帰ってきます。そして、この過去と現在の行き来によって、未来の選択ができるようになるのです。過去を本質的に了解していなければ、その連続である未来を適切に見据えることはできません。死によって行われる過去の了解によって、未来と関わり合うことができるのです。この過去との関わり、未来との関わりによって存在する現存在のことを、彼は「時間内存在」と呼びました。つまり現存在≒人間とは、「世界内存在」であり「時間内存在」でもある、というのがハイデガーがその主著である「存在と時間」において出した結論です。私達は、世界と時間、その両方との関わり合いによって存在することのできる存在であるということです。
彼の哲学はよくニヒリズム、ペシミズムだと捉えられます。たしかに、私達の日常生活を全否定するような思想とも捉えられるかもしれません。ですが、実存主義、特にハイデガーの哲学の画期的なところだと思うのは、「理想主義の殻を打ち破った」ところです。今までの哲学は「イデア界という理想世界があり、その完璧な理想を私達は学ぶ事により想起することできる」というソクラテス-プラトンから始まり、「理性を使って、考えればわかる」という大前提がありました。ですが実存主義はその理性主義にNOを叩きつけました。「そんなことを考えたところで、いずれ死ぬこの私がなぜ存在するかなど分かりはしない。ここに存在している一人の自分から哲学はスタートすべきだ」と主張したのです。実存主義哲学は、1人の人間という弱く儚い人たちが積み重ねた、等身大の哲学と呼べるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?