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あの頃のTwitterの夢と希望

この文章は、モノグサ株式会社のオウンドメディア「まじめにものぐさ」( https://note.com/majimeni_monoxer/)から依頼を受け、連載「ただいまキャンパス」に寄稿したものです。早稲田大学在学中のエピソードとなります。


ハイボールを飲みながら、アニメ『チェンソーマン』を何気なく見ている時だった。あまりに懐かしいメロデイに耳を疑った。ドラムにベース……聴いたことがないはずなのに、私はこの曲を知っている。え、何これ。

思わず右手に持ったiPhoneですぐに検索する。作詞作曲のクレジットを見た瞬間、私は遥か遠くにタイムスリップした。

ここ、ここ、ここはどこ、宇宙——

ではなく、高円寺にあるマンションの一室だ。私は大学の授業終わりに中央線に乗ってここまでやってきた。四方を本棚に囲まれた1Kの「事務所」。テーブルを挟んで正面に座るのは、30代の男性2人だ。

この日、私はインターンの面接に来たのだった。これから書くのは、Twitterがまだ牧歌的だった「あの頃」の話だ。

「やりましょう」や「〜なう」に沸いたあの頃のTwitter

2009年頃から大学のキャンパス内では「Twitter、始めた?」「アカウント何〜?」という会話が聞こえるようになった。この新しいSNSはものすごい勢いで広まっていき、しばらくすると「あの人Twitterで見たことある」という"プチ・インフルエンサー"な同級生が生まれていた。

Twitterの登場前にはmixiが流行っていたし、なんなら私は中学生の時から某掲示板に入り浸っていた。ネットでのコミュニケーション耐性が備わっていると思っていたものの、Twitterは過去のSNSとは一線を画していた。

Twitter以前は、現実とネットの間に大きな分断があったのだと思う。掲示板にいる人と実際に会うなんて考えられなかったし、mixiはリアルな友だちとの親交をより濃くする面が強かった。

学食の壁

一方でTwitterには、実名も匿名も混在している「社会」があった。一生顔を合わせることがないであろう一般人の悲哀や、友だちのつぶやき、著名人による社会分析などが凄まじい勢いで流れている。初めてTwitterにログインした時は、カオスな情報量と「@って? ハッシュタグって?」と聞き慣れない単語に困惑した。

それでも自分の投稿が知らない誰かに「RT」されたり「ふぁぼ」されるのは、これまで体験したことがないぐらいの愉悦があった。自分の書いた文字が誰かの心を少なからず動かしたと思えたからだ。

Twitterで何かをしていることを表明するときは、「なう」を語尾につけるのも流行り、私も無意味に「カフェなう」とか「スタバなう」とTweetしまくっていた。時々、近くにいる友だちから「私も近くにいるんだけど」とのリプライを受け取り合流することもあったので、案外意味はあったのかもしれない。

大学のキャンパス。なぜか立て看板が常に鎮座している

学内の交友関係にとどまらず、私は「口ロロ、好きなんですか?」と別の大学に通う学生にリプライを送ることもあった。「同じ音楽が好き」という一点の共通点があるだけで、その人と仲良くなれる気がしたのだ。そういうこともあり、私は自分が今聴いている音楽につける「#NowPlaying」のハッシュタグが大好きだった。

Twitterはこんな風にネットとリアルを混ぜて、自分を拡張していってくれるような存在だったのだと思う。

総理大臣がTwitterアカウントを作って話題になった時は「時代の転換点だ」と思った。これまで、テレビや新聞という手の届かないほど上から一方的な情報が降ってくるだけだったのに、一市民が物申すことができる場所で情報発信が行われるようになったのだ。

もっとヤバいと思ったのは、Softbankの孫社長がTwitterで意見を募集しては「やりましょう」と即行動に移すプロジェクトだ。特設サイトまで用意され、進捗状況までも公開される様子は、本当に「SNSで社会が変わるかも」という期待を高めた。

立場や権威に関係なく、フラットにコミュニケーションがとれる。これまで見たこともない情報に触れることもできたし、Twitterをきっかけにブレイクする人もおり、扉が開いたような感覚すらあった。

SNSで社会が変わり、その先に「より良い未来」が待っているような気配があった。

金髪のジャーナリストとインターネット

就職活動もひと段落し、消化試合のような大学生活を送っていた私のタイムラインに、ある投稿が流れてきた。「僕の運営するインターネットユーザー協会の手伝いをしてくれるアルバイトを募集します。就活が終わった大学生とかにちょうどいいんじゃないかな」という内容だったと思う。

津田大介さん(のチロルチョコ)

投稿主は金髪頭がトレードマークのジャーナリスト・津田大介さんだ。津田さんはTwitterを賑わす1人で、記者会見や発表会などを取材しながらTwitterで実況中継しては注目を集めていた。その行為は「tsudaる」と呼ばれるようになるほど一部の層で定着した。2010年は著書『Twitter社会論』がベストセラーになり、津田さんはテレビ番組にもよく出演していた。

Twitterに対する期待と同じような無根拠なワクワク感で、私は津田さんに連絡した。「それ、受けてみたいです」。

ただ、待てど暮らせどメールは来なかった。諦めモードに入っていたところ、作田さんという方から「メール届いてますか?」というDMが来た。学校用のメールボックスがいっぱいでメールの受信ができなくなっていたのだ。

無能!

頭の中はその2文字で埋め尽くされ、次の瞬間「無能→お祈り」という式が出来上がった。就活ではちょっとしたミスをすると、企業から「今後のご活躍を"お祈り"申し上げます」という不合格通知が来たではないか。私は就活で何も学んでいなかったのである。

ところが、私の絶望とは逆に作田さんは「連絡がついてよかったです。日程はどうしましょうか」と話を進めてくれた。なんてエレガントな人なのだろう……と感動しながら、面接の日程を決めた。

STUDIO VOICEでの相対性理論特集。こっちの方向性で攻めているところも好きだった

面接の日には、大好きだったバンド「相対性理論」の『LOVEずっきゅん』をiPod miniで聴きながら中央線に乗り高円寺まで向かった。白いイヤフォンからは、ボーカル・やくしまるえつこさんのウィスパーボイスが聴こえる。

ここ、ここ、ここはどこ、宇宙——

話が逸れるが、相対性理論は地上波テレビなどのメディアにほぼ登場しないながらも、カルト的な人気を集めるバンドだった。『テレ東』や『小学館』といった斬新なタイトル、甘い歌声、不思議な歌詞も当時の自分に刺さった。ほとんど顔を出さないスタイルは、匿名性を表現しているように感じたし、既定路線ではない形でブレイクする様子も合わせて目新しかった。

「君は不合格の予定だったんだよ」

面接会場は、マンションの一室だった。おそるおそる中に入ると、本棚に囲まれた部屋の真ん中に作田さんと津田さんが座っていた。2人ともめちゃくちゃ大きい。それは体格というよりも、社会で活躍している人の持つ覇気のようなものだろう。大学ですれ違う同級生より何倍も大きく感じられた。

津田さんは「髪の毛傷まないのかな」と思うほどきれいな金髪頭で、Twitterのアイコンそのままの姿だった。低く落ち着いた声で「こんにちは」と言われ、私は思わず「うわぁ、本物だ」と震えた。

何を話したのかはっきりとは覚えていないが、Twitterのログを眺めながら最近読んだ本の話などをした気がする。私は"意識のみ"が高まっている学生だったので、読書感想のような投稿をしたり、社会現象について斜め上から分析を振りかざしたりしていた。大人の目線から見ると目も当てられないTweetの数々を、2人は「へぇ」と言いながら目を通していた。

しばらくして「合格です」というメールをもらった。後日、顔合わせに行くと5人ほどの男性が例の1Kに集合していた。平均年齢30後半〜40前半ほどのメンバーが揃った事務所は『STEINS;GATE』の「未来ガジェット研究所」のような雰囲気だ。これまで同世代の人間としか交わったことがなかった私はガレージ臭にクラクラした。

完全アウェイの中「か、か、かしまゆいです!」と頭を下げる。私を一瞥すると全員がすぐに自分のPCとスマホに目を移す。「こういう感じのTweetしてるのね……」。私のアカウントを眺めているのだ。

5秒ほどの沈黙の後、1人から「(社会学者の)毛利嘉孝のイベントに行きたいの?」と聞かれた。「あ、はい……!! 毛利さんの著書『ストリートの思想』が好きで!!」と前のめりに発言すると、全員から爆笑された。「これは合格だわ」とのことだった。

そんな流れで「インターネットユーザー協会」でインターンすることになった。

後で知ったが、私は「落ちる予定」だったらしい。理由はもちろん「メールボックスがいっぱいだったから」だ。それでも採用に至った背景には、津田さんが「早稲田生はこういうダメなところがある子が多いけど、多分化けるから大丈夫」みたいなフォローをいれてくれたからだそうだ。

基本的に業務の連絡や相談はすべてSkypeで行い、私の主な業務は事務仕事やメール対応だった。ちょうどイベント開催がせまっていたので、その対応に明け暮れていたものの、社会人のメール作法などは全く知らなかったので、私は本当に使い物になっていなかったと思う。

メールは「お世話になっております」から始まり「以上、よろしくお願いします」で終わる。「お世話になっています」ってどういう意味だよ、世話になんかなってないわ……と思いながらも、一生懸命レスポンスした。

特に興奮する仕事は「ニコニコ生放送」だった。私は現場にいる意味のないスタッフだったものの、日本橋浜町にあった旧ドワンゴオフィスなどのスタジオに呼んでもらっていた。

ネットの玄人たちが喧々諤々と議論をするさまを間近で見るのは、まるでスポーツ観戦のような体験だった。プロが集うタイムラインは激流で、瞬時に論点を理解し、問題提起のコメントを見逃さない瞬発力が求められる。そんな白熱する現場を目の当たりにしながらSNS投稿をしたこともあった。「ミスしたらどうしよう……でも早く投稿しなければならない」。いろんな感情が胃をぎゅっと掴み、現場で吐きそうになったのはいい思い出だ。

TBSの深夜ラジオ

津田さんが「クルー」として出演していたTBSラジオ『 文化系トークラジオ Life』のスタジオに足を踏み入れられたのは、本当にラッキーだったと思う。

この番組は、社会学者の鈴木謙介さんをメインMCに据え、編集者やライターなどからなるクルーたちが、今ホットな文化系トピックについて夜通し語り合う番組だ。「大学でもその番組名については耳にしていたものの、日曜日25時スタートということもあり、なかなか聴けずにいた。 

『Life』のスタジオ

津田さんが「スタジオにおいでよ。このプロデューサーにメールしたら入れるから」と軽く言う。「いやいや待て待て……ラジオ番組のプロデューサーにサクッとメールなんて送れるわけないだろ!」と思いながら、メールを打った。返事は5文字。「いいですよ」とのことだった。

緊張でガッチガチになりながらスタジオに入ると「出演者と連絡がつかない!」と騒がしかった。『ウェブはバカと暇人のもの』の著者が放送直前にも関わらず現れないのだという。あはは……と笑うクルーたちは、いかにも業界人らしい(名誉のために追記すると、著者の方はその後スタジオに現れた)。

『Life』で話される内容は「グッときたレコメン体験」や「菊地成孔さんの新著特集」など、自分が大好きなトピックばかりだった。本当は大学構内でもこのような会話をしたいと思っていたものの、"議論"ができる関係を同級生たちと築けなかったので叶わなかった。自分で悶々と考えていたことが、プロの手によって色鮮やかに展開されていく番組は、それまでの孤独な時間を溶かしていくように熱かった。

卒業後にはられていたメッセージ。この掲出物を見て、初めて「コメント募集」を知った

ここで急な話をするが、私の大学生活はかなり悲惨だった。「初手からファーストネームで呼び捨てにする」「自堕落な生活を自慢する」「性生活を匂わせる」といった大学生特有のコミュニケーションにアレルギー反応を起こし、交友関係に乗り遅れた。同級生とはキャンパスですれ違う際に「おつかれ〜」と挨拶を交わしたり、話を振られたときには「わかる〜」と適当な相槌を打ったりするだけで、深い話をする関係にはならなかったのだ。

だからこそ、ニコ生や『Life』のような現場は輝いて見えた。違う意見を持った人が議論をすることで、新しい答えを見つけていく可能性がそこにはあったからだ。Twitterにも似たものがあった。短いTweetに共感や発見があり、対面だと気がつかない本心が文字として漂っている。私にはTwitterに投下される言葉の方が、面と向かって発せられる言葉よりも信頼できた。同級生が意外と饒舌だったこともTwitterを通して知った。仲良くなるための時間は残されていなかったけれど。

明け方4時ごろになると少し過疎ったタイムラインにぽつりぽつりと「まだ起きている」ことを知らせるつぶやきが現れるのも好きだった。彼・彼女らの自虐と孤独が混ざった言葉を見ているだけで「ひとりじゃない」と実感できたのだ。それだけで私の心は十分に満たされた。

ニコ生、『Life』、Twitter。卒業論文が受理された後、私の大学生活はようやく彩りを得た。

震災直後のファミレスで津田さんが言ったこと

そんな中、3.11が起きた。未曾有の大災害とSNSの普及のタイミングが重なり、リアルとインターネット双方で混乱が起きていた。被災地の自治体やメディアが現場の窮状をSNSで伝えていたこともあり、「Twitterは新聞やテレビよりも速報性が高いのではないか」という見方が強まった。

被災した当事者が発信する情報は救助を早めたし、帰宅困難になった時はTwitterで互いに励ますこともできた。一方で、デマや根拠のない憶測が飛び交い、不安を助長させることもあった。

そんな無秩序な状態の中でも、津田さんはニコ生で番組を放送していた。「今、動くべきだ」という意志があったんだと思う。Twitter上の不安な声や被災地の現状やらデマなどをきちんと整理してまとめ、何が問題なのかをはっきりさせるだけでも意味があった。

私も浜町に向かった。外を歩くと、地面がバッキバキに壊れており、歪んだ地盤から砂塵が舞う。幸い電車は動いていたものの、ドワンゴ社屋の近くに大きな窓ガラスが落ちていてゾッとした。「どこから降ってきたんだろう」。空を見上げたけれど、電灯が消えた真っ暗な夜空が広がるだけだった。

スタジオに着くと、ごく少数のスタッフが番組の準備を始めており、その真ん中に津田さんが座っていた。PCで黙々と作業をしており、極めて平常心のように見えた。番組中もいつもと同じように淡々と話し、とても自分と同じ状況にいる人には見えなかった。

番組終了後に食事をしようと数名でファミレスに入ったものの、様子が少しおかしかった。人がほとんどいないのだ。店員によると「物資が届いておらず、提供できないメニューが多い」らしい。一応、頼めるメニューを用意してもらい、なんとか食事にありつけた。計画停電の中、限られた食材の中でファミレスを回す人にも頭が下がる。

津田さんは、薄暗い店内で「新しい10年が始まる時は、大きな事が起きて、テクノロジーと一緒に新しい時代の流れが生まれる」と自分を鼓舞するように呟いた。

***

あの日から10年以上の時が流れた。

ソーシャルメディアも随分成熟して、私たちを取り巻く環境や倫理観も大きく変わった。

大学生だった私は、一応メディアの端っこで文章を書いてはお金をもらうようになった。ビジネスメールはすっかり板についた(はずだ)し、人付き合いもちょっとは上手くなった。『Life』で出会ったクルーの方々は、仕事を発注させてもらったり、一緒に登壇したりと昔とは形を変えて"お世話になっている"。大学生活の最後に起こったパラダイムシフトが、私の基盤となったことは間違いない。

大好きだった相対性理論は、やくしまるえつこさんが自身のバンドを「ソフトウェア」と評したように、メンバーを変えるなどアップデートを繰り返し、今は当時と全く違う活動をしている。『LOVEずっきゅん』を作った真部脩一さんは2012年に相対性理論を脱退し、いろいろなバンドミュージックを手掛けたすえ、2023年に『ちゅ。多様性』を生み出した。この楽曲は『チェンソーマン』のEDに採用され、SNSやサブスク、ひいては地上波テレビも席巻中だ。

Twitterはすごい勢いで崩れ始めていて、"移住先"として「Threads」が誕生した。Instagramが展開する文字メインのSNSであるThreadsは、今のところ炎上が起きてなさそうだし、ヘイトも見えてこない。ぎこちなさとゆるさが同居するSNS空間は、10年前のTwitterのようにも見える。

2010年代における新しいテクノロジーがSNSだとしたら、多分2020年代のそれはAIになるのだろう。Threadsは確かに新しいけれど、今のところ「かつてのTwitter」のようなパラダイムシフトは起きなさそうだ。もちろん、新しいカルチャーが生まれるのだろうけれど、これから先、どうなるのかわからない。

中央線を乗り越して大月あたりまで行けば、何かに気付けるだろうか。ただ、「あの頃」がもう戻ってこないことは確かだ。

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