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嘘をついた日のこと

人間は4時間に1回、嘘をつくらしい。実際、僕は無意味な嘘をつく。

六本木通りを一本入った雑居ビル。一等地にもかかわらず、平日はビール1杯180円という破格の安さがウリの大衆居酒屋で、僕は小さな嘘をついた。

ビールケースにベニヤ板をのせたようなテーブルの上に、氷の入ったハイボールが運ばれてきた。まるで決まっているかのように、ジョッキを軽くぶつけて液体を喉に流し込む。

初めて飲んだハイボールは消毒液みたいで全然美味しくなかった。

「ハイボールよく飲むの?」
「うん」

***

人生のどん底にいる時、Kに出会った。「つまらない大人になんてなりたくない」とダサい不安に苛まれながら社会に飛び出たものの、忙しない毎日に白目をむくほど溺れていた時期だ。

3月11日の大地震以降、今まで信じていたものが、まるで砂の城を崩すみたいにパラパラと崩れていったあの頃。オリコンチャートは会いに行けるアイドルで埋め尽くされ、CDは株券になったとか言われた時代。SNSの普及で世界は変わったと思ったのに、現実は何ひとつ変わらなくて絶望した。

営業だった僕は、すし詰めの満員電車に揺られて、会社に行けば赤い数字に怯えて、意味もわからないことで頭を下げた。1件でも契約が欲しくて、道路横でティッシュ配りをした後には深夜まで資料作りに追われ、シャワーを浴びるために家に帰った。会社で飛び交う会話は、芸能ゴシップに会社の不倫情報に、社内政治の裏事情。全然おもしろくなかった。

大学の同期は社会にうまく馴染んで、給料の多寡とか会社にいる美女の話しかしなくなった。つまらなさそうにしていたのが仇になったのか、僕はゼミのOBOG会にも呼ばれなかったし、結婚式は一度も声をかけられなかった。Facebookで【ご報告】投稿を見るたびに「 いい加減大人になりなよ」という声が聞こえるような気がした。

全部、要らなかった。いつしか僕は「おはよう」の代わりに「死にたい」と言って目を覚ますようになっていた。

Kと出会ったのはそういう最悪な時期だった。友人から「きみに合いそうなヤツがいるから紹介したい」と言われて、森美術館に足を運ぶと、Kは待ち合わせ時間から20分ほど遅れて六本木ヒルズに現れた。ぜえぜえと肩で息をするKのカーキ色のコートは着崩れてたし、髪の毛はボサボサだった。顔を上げながら「すみません、遅くなりました」と言う姿を見て「空から変なヤツが降ってきた」と思ったのを覚えている。

森美術館に行った後、近くで飲もうという話になり、向かったのが大衆居酒屋だった。雑居ビルの3階に上がると、ガヤガヤとした小汚い空間が広がる。六本木といえば、煌びやかな印象が強かったので驚いた。どうやらKはよくここで飲んでいるらしかった。

Kは建築を学ぶ大学院生で、私大文系卒の僕からすると出会ったことのない人種だった。平成生まれのくせに小沢健二が好きで、森博嗣の文章をよく読むと話し出した。タバコを吸うときにチラッと見えた細い腕には、僕が買おうか悩んでいたISSEY MIYAKE の時計が光っていた。

「何飲む…?」
「うーん、どうしようかな…」

居酒屋で必ずする会話に僕は緊張した。というのも、その時までアルコールを嗜んだことがほとんどなかったのだ。大学ではサークルに入りそこねたし、駅前のロータリーで悪酔いする輩を見ては軽蔑していた。どうしても断りきれない飲みの席では、梅酒やレモンサワーをちょびちょび飲んでは場をやり過ごしてきた。

だから、びっしり書かれたアルコールメニューを見ても、どうしていいのかわからない。こういう時、何を飲むのが正解なんだろう。黙っていると、Kはごく自然に「ハイボールにする」と言った。

いつもと同じように薄めの甘い酒を頼んでも良かったけれど、僕は自分も頻繁に飲んでいるような素振りで「僕もハイボールにする」と注文した。

目の前に運ばれてきたそれは、安い蛍光灯の光を浴びてキラキラと輝いていた。Kが目をぎゅっと閉じて喉を鳴らして飲むから、僕も同じようにして液体を食道にかっこんだ。まずい。苦い。美味しくない。でも、何を話せば良いのかわからなくて、僕は時間を埋めるようにジョッキを何度も口に運んだ。

アルコールに耐性のない僕はさっそく酔っ払っていて、「今日の展覧会は60年代の日本の作品がメインだったけど、あの時代はいいよね。僕は坂本龍一が大好きなんだけど、彼は当時、バリ封された新宿高校の校庭でジャズピアノを弾いていたらしいよ。かっこいいよなぁ」と、うっかり趣味の話をし始めていた。2010年代を生きる若者に60年代の話をしたところで「めんどくさいヤツ」だと思われるだけなのに。やってしまった。

恐る恐る視線を上げると、Kの目は予想外に明るくなって「いいよね、60年代」と返された。それから、Kは門外漢の僕にも理解しやすいように建築について滔々と語り始めた。中銀カプセルタワー、フジテレビの社屋、代官山のヒルサイドテラス。それらは60年代の思想が込められているらしい。”新陳代謝”を掲げたデザインらしく、独特な美しさがある。まさか自分がよく見る建築物にこういう背景があるとは知らなかった。

その後に「あの時代は憧れる」と会話が弾んでいった。Kとの会話は噛み合っていないようだけど、一番奥底の歯車はカチリとハマった。初対面とは思えないほどの勢いでKと話しているうちに、右手に持ったジョッキの中は空になり、気がつけば、またハイボールを頼んでいた。なんのきっかけか忘れたけど、価値観とか夢とか美学の話になった時、Kはこう言った。

「100年残るものを作るのが、夢なんだ」

建築とは、その場所に100年残ることを意識して作られるらしい。生活が激変する中で、人々の生活に馴染むものを作りたいんだという。今から100年前って、ちょうど『鬼滅の刃』の時代ぐらいだ。東京の町並みは、1年間で2%が変わっているらしいから、100年残る建物を作るなんてかなり壮大な夢だと思う。

営業成績に一喜一憂して、誰でもできる仕事に粉骨砕身してる僕にとって、Kの夢は神々しくて眩しかった。夢を抱いたところで打ち砕かれるに決まっていると思っていたし、そんなもの最初から持たない方がイージーに生きられるって思い始めていたから。

生きる意味とは何なのかとか、およそ自分の頭の中では処理しきれない抽象的な思考。労働の世界では「意味ないこと」で片付けられてしまう物事。僕はそういうものが好きだった。

「きみはおもしろいね」

六本木駅までの帰り道、Kは僕に向かってそう言った。

23年間生きてきて、その時初めて、僕は心から安心して呼吸をした。学校にも会社にも居場所なんかなくて、一人で息を潜めて生きてきた。僕みたいなめんどくさいヤツのことをおもしろいと認めてくれる人なんていなかった。アルコールっていうのは、感情のコントラストを大きくする効果でもあるんだろうか。何気ないひとことに異常なぐらい感動して、ここが六本木通り沿いじゃなかったら泣きたかった。僕はKと「友達」になった。

その日からKとは数え切れないぐらいのハイボールを飲んだ。あの本が面白かったとか、あの映画はエモいだけで何もなかったとか、あのビルは最高に美しいとか。「そんなこと話して何になるの?」と聞かれれば、「何も残らない」と答えるしかない内容だ。僕はKに「おもしろいヤツ」だと思われたくて、隠れて本をたくさん読んだし、映画も見たし、勉強もした。逆にちょっとでもいいから僕に近づいて欲しくて、Kにいろんな本を貸したし、美術館とかライブとか、いろんな場所にKを連れ出した。

恋愛の話だってした。Kには彼女がいて「恋人は才能溢れる人で、今でも充分に優れているが、もっと伸びると良いと思う」と話していた。そういう感情を誰かに抱いたことがなかったから羨ましくなった。

好きなお酒とか、音楽とか、関係の始まりこそ共通点かもしれない。でも、僕たちは全然違う人間で、同じものを見ても違うように感じる。互いに出来ないことをするからおもしろい。これまで人間関係といったら、寸分の誤差も許されない窮屈なものだと思ってきたから、Kとの時間は初めて安らぎを感じるものでもあった。

僕はKを通して誰かと繋がることを知った。

***

20代前半、あんなに一緒に過ごしたのに、いつのまにか僕とKは疎遠になっていた。Kも会社勤めをするようになって生活スタイルが変わったし、僕も営業から文章を書く仕事について、当時よりも忙しい毎日をすごしている。仕事はやりがいもあるし、K以外にも青臭い話をする飲み仲間もできた。友情っていうのは、愛情よりも儚いのかもしれない。

Kと会わなくなってからしばらくして、一度だけ一緒に飲んだ。その日もくだらない話をして旧交を温めたが、かつてのような歯車がカチリとハマる感覚はなくなっていた。ハイボールが注がれたジョッキの中で、小さな泡が湧いては消えていく。退屈だったわけじゃない。でも、なんとなくもうKとは会うことがないような気がした。

「きみが変わってなくて安心した。きみと話していると23歳の頃の自分に戻るようだよ」

別れ際に、駅前でこんなことをKから言われて僕はまた泣きたくなった。違うんだ、K。きみとの時間が僕に教えてくれたんだ。行かないでくれ。そう思ったけれど、何も言わなかった。

その後、風の噂でKが結婚したことを知った。なんだよ、教えてくれても良かったじゃないか。

ときに思い悩み、ときに安堵を覚え、感情の彩度が高まる時期のことを青春と呼ぶのなら、僕はお酒を飲むことでそれを手に入れた。思えば、青春なんて嘘ばかりだ。好きでもないものを好きだと言い、おもしろいヤツだと思われたくて着飾って、そのくせ本当はもっと一緒にいたいのに言葉を飲み込んだりする。異性の関係よりも尊いものがあるなんて思ったりしてさ。

あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう。

ハイボールはすっかり私の生活に馴染んだ。いい年齢をして、まだ雑多な居酒屋で安酒を飲むのが好きだし、1人で飲みに行ってはあの頃みたいに答えのないことを考えたりする。

アルコールを身体にいれると喉がカッと熱くなり、青い感情を思い出す。お酒は大人の飲み物なんていうけれど。

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このnoteは、キリンと開催する「 #ここで飲むしあわせ 」投稿コンテストの参考作品として、主催者の依頼により書いたものです。


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