幸先(続き)

     日記より27-15「幸先」(続き)      H夕闇
 その夕刻、久々の緊急地震速報が鳴った。この地では空騒ぎに過ぎなかったが、能登半島に死者二百人を越える大きな被害が出た。活断層に因(よ)る最大震度七、津波も約四メートル。僕らは十二年前を思い出し、冷え込みを思(おも)い遣(や)った。心底から温もりが恋いしかった。
 翌日夕方、その被災地へ支援物資を運ぶ海上保安庁の飛行機が、羽田空港C滑走路へ誤って進入、着陸滑走のJAL旅客機A350‐900と衝突炎上する大事故が起こった。旅客機からは乗客乗員三百七十九人の全員が脱出でき、そのパニック・コントロールが賞賛されたが、新年の幸先(さいさき)が不安視された。

 正月二日には、長女が親子三人で訪れた。去年やっと産まれた孫は、いつ着られるかと思い乍(なが)ら贈ったベンジャミンの繋(つな)ぎ服(ふく)で、既にハイハイは堂に入ったもの、もう掴(つか)まり立(だ)ちまで出来る。昨秋(母親が永く目舞いが続いて)暫(しばら)く一緒(いっしょ)に里帰りしていたものだから、ジージに抱かれても泣かない。三週間も暮らした実家を懐かしむかの如(ごと)くに、あちこち居間(いま)中を這(は)い回った。人格の一部である記憶力も、かなりシッカリ出来つつあるようだ。
 その頃バーバが教えたバイバイも拍手も、チャンと覚えていた。自宅へ戻ってからは大体(昼間は)母親と二人きり。自分が拍手をして見せても、それに合わせて共に拍手してくれる人が少ないから、張り合いが無かったのじゃないか。初春の実家へ帰省したら、(両親に加えて)ジージ&バーバや叔父も参加し、大勢で唱和。大きなコミュニケーションが成立するのが、楽しい様子だ。おちょぼ口を大きく台形に開けて、カッカッカッと豪快に笑う。家族や親族が一堂に会する年賀が、幼心にも嬉しいのだろう。
 この子の誕生祝いの返礼品に貰(もら)ったカタログ・ギフトで牛肉を選んだのが届いており、一族郎党すき焼きの鍋(なべ)を囲んだ。但し、運転して帰る婿(むこ)殿(どの)だけは、屠蘇(とそ)酒(ざけ)もノン・アルコール。

 三日、伜(せがれ)が自動車で日帰り温泉へ招待してくれた。嘗(かつ)て僕が勤めたZ分校に立ち寄ってT温泉へ。屋上の露天ぶろから、分校時代に同僚たちと通ったスキー場が見えた。夕方五時になると、体育教師のジープに乗り合わせて、皆でゲレンデへ向かったものだ。当時はナイター・スキーの施設など無く、レスト・ハウスの照明を頼りに自分の足で登るのだ。自(みずか)らラッセル踏んで上った斜面、慈(いつくし)しみ惜(お)しむように滑った。
 行き帰りの車中でも、僕は先輩教師から多くを学んだ気がする。例えば、以前ON砲と讃(たた)えられたプロ野球巨人軍(ジャイアンツ)の王と長嶋、中でも努力型の王選手は日本人に圧倒的な人気を博した。けれど、「僕は練習なんか全然しなくても打てる。」と豪語する天才型の長嶋選手も、実はコッソリ余程の鍛錬(たんれん)を積んでいた筈(はず)だ、とS先生は言った。努力を売り物にしない丈(だけ)のことで、隠れて猛練習していなければ、到底(とうてい)あんな思い切ったファイン・プレイは出来るものじゃないと。
 又「あの生徒は明るい子だ。」と一見ひどく口数の少ない女子生徒に就(つ)いて話したことも有った。お喋(しゃべ)りで人付き合いが多くて賑やかに動き回るような子を、世間では「明るい」と評価するけれど、それは不安や絶望を隠す為(ため)の派手(はで)なカムフラージュかも知(し)れない。将来に対してシッカリ希望を持ち続けられる子は、地道な努力を黙々と積み上げることが出来る、それが本当の明朗さじゃないかと。
 その頃さり気なく教わった事々は、後々僕を支(ささ)える糧(かて)となったように思われる。そうやって(スキー教室の講師を養成した丈(だけ)でなく)かれは新米教員を育ててくれていたのだろう。
 そんな思い出深いEスキー場だが、冷え込んだ夜の山上は、手足がガジガジかじかんだ。白いスキー・コースを湯煙りの中から遥(はる)かして、懐旧の時に巡(めぐ)り合おうとは、当時チッとも思い至らなかった。茶色く濁(にご)った岩ぶろに浸(つ)かって、むすこに感謝した。お陰で、ユッタリした剛毅(ごうき)な正月に恵まれた。

 旧年中の忘れ難い出来事に、卵焼きの一件が有る。
 秋の週末に、伜が末娘を連れて来訪。翌日むすこが職場へ持って行くように、と妻が(夕飯と一緒(いっしょ)に)大きな弁当を作った。伜は余り甘くない卵焼きが好みなので、母親は砂糖を控(ひか)えた。毎度お世話になることに遠慮したか、又は子供たち(僕らの孫たち)へも分け与える為(ため)か、むすこも手伝って台所に立った。子供たち用には、甘い味付けをするのだろう。すると、幼稚園児の孫娘も手伝いたいと言い出し、親子三代が台所に群がってワイワイガヤガヤ。結局、甘い卵焼きばかり、たくさん出来上がった。その日の夕食、僕は孫から大きな一切れを分け与えられた。ジージが甘い卵焼きが好きなことを、孫娘は知っていたのだろうか。きっとバーバから入れ知恵が有ったのだろう。
 僕の母は看護婦で、僕は祖母に育てられた。祖母の卵焼きは実に甘露だった。戦時の食糧難を生きた祖母は、兎(と)に角(かく)ドッサリ砂糖を入れるのが美味の別名と思い込んでいた節(ふし)が有る。僕も永らく卵焼きとは甘い食べ物と思い込んでいたが、学友と弁当の総菜(そうざい)を交換した時、我が家が飛び切り甘味なのを知った。
 本人たちが帰った後に妻から聞くと、孫娘は「ジージに卵焼きを作る。」と父親に言って手伝ったのだそうだ。そんな経緯が有ろうとは知らず無造作に平らげてしまった僕は、(遅(おく)れ馳(ば)せ乍(なが)ら、)孫に宛(あ)てて礼状を書いた。無論、初めての手紙である。
 因(ちな)みに、この子は(学校へ上がる前なのに、)平仮名と片仮名が自在に読み書き出来る。これから漢字や足し算を目指すと言うから、クリスマスに小学生用の学習タブレットを贈った。
「Mへ、たまごやきを つくってくれて、ありがとう。あまくて、おいしかった。ジージのバーバのあじが しました。ジージより」
 母が子の為に、子は孫に、孫は祖父へ作った卵焼きである。

 はやりの歌など知らない僕だが、それでも(いつの間にか、)耳に入っていた古い歌詞が有る。
「あなた、変わりは無いですか。日ごと寒さが募(つの)ります。着てはもらえぬセーターを、涙こらえて編んでます。」(阿久悠作詞「北の宿から」より)
 妻が伜に作った弁当を、伜は孫たちに分け与える。それを承知で、妻も多目に作る。だが、最近それを食べる孫が一人減り、二人減り、、、最近むすこしか食べないと言う。孫たちに食べてもらえぬ卵を焼く時、バーバの心境は一体(いったい)いか程だろう。又、直接その食卓の様子を見詰(みつ)める伜は、、、、、    (日記より)

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