日記より25-20「喪中葉書き」1

     日記より25-20「喪中葉書き」1        H夕闇                                                                                                                                     十二月八日=開戦八十年(水曜日)雨

 思う所(ところ)が有って、僕は年賀状を已(や)めたが、歳末が近付き、喪中(もちゅう)葉書きが届く。内一枚は旧同僚IZ先生からで、岳父が他界とのこと。暫(しばら)く不沙汰(ぶさた)したが、略式にてEメールで悔やみを送った。その本文は(若干(じゃっかん)の編集を加えたが、)以下の通り。

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拝復  けさ喪中の頼りを落掌(らくしょう)しました。謹んで心中お察しし、お悔やみを申し上げます。以前のメール・アドレスが今も生きているのか、不安ですが、送信してみる次第(しだい)です。

 冒頭歌「喪中とは人のことかと思うたが 我がことなりと気付く歳末」はI先生の御自作でしょうか。

 岳父は大正末年の産まれとのこと、昭和の年号と共に歩まれた点、僕の父も同様です。すると、二十歳の成人と同時の徴兵でしょうか。「戦中派」には「戦争を知らない子供たち」の想像を絶するような苦労が有ったものと拝察します。

 僕の父の場合い、国策にて単身で満州へ渡り、徴兵検査で現地入隊。間も無く沖縄支援の命令が下って、極寒の満州から北朝鮮の港まで雪中行軍、軍艦で出帆したそうです。これが父の最初の幸運でした。もし八月九日まで満州に留まっていたら、国境を越えて来るソ連の戦車に依(よ)って、満州の土と化したでしょう。又は、シベリヤで酷使された末、凍土に埋もれたに違い有りません。少なくとも、そう本人は想像しました。

 そして、朝鮮半島を出発した部隊移動の輸送船は、那覇軍港へ着岸できませんでした。時は既に遅く、四月一日にアメリカ軍が上陸作戦を開始、もう沖縄本島へは入港できなくなっていたのです。これが父にとって第二の幸運となりました。もしも米軍より先に目的地へ到着していれば、日本唯一の地上戦で父の骨は沖縄の土になった筈(はず)です。

 目標を失った部隊は、取(と)り敢(あ)えず一時的に北九州の小倉港へ上陸しました。そして、付近の山で、父ら新兵は訓練を受けていたそうです。船が命令変更の連絡を受信した時、もしも航路を少し先まで進んでいて、最寄りの港が(小倉でなく)長崎だったなら、事態は大きく違った物になったでしょう。

 又、御存じかと思いますが、八月九日に二つ目の原爆ファット・マンを積んでテニアン島から出撃したB29の第一目標は、(数年前に公開された米公文書に依ると、)小倉でした。予定通りであれば、そこで父は被爆し、命を失った筈です。所(ところ)が、当日の朝に爆撃機が小倉の上空に到達すると、雲などが多くて下界の攻撃目標が目視できず、それで第二の目的地(長崎)へ転進したとのこと。その朝もしも北九州の天気が良かったら、(又は輸送船の寄港地が長崎だったなら、)父は勿論(もちろん)、我が家の歴史は全く変わったことでしょう。ここで父は第三の幸運を掴(つか)んだことになります。

 結局は外地へ派兵されずに済み、シベリヤでも沖縄でも北九州でも土とならなかった父は、終戦の翌九月に無事の帰還を果たしました。最も早い復員兵の一人でした。けれども、戦争末期の悲劇(シベリヤ抑留・沖縄戦・原爆)から命を拾った父は、多くの日本人が犠牲になる中、自分ばかりが恵まれたことに、後目痛(うしろめた)い思いを抱えて生きたようです。晩年に僕と実家の庭の草取りをし乍(なが)ら、それを口にしました。

 その父の最期は、十年前(東日本大震災の一月後)、最大余震の有った直後でした。その二箇月前から市内のO病院に肺炎で入院中だった父の付き添いに託(かこつ)けて、僕は院内でボランティア活動に従事できました。地震に因(よ)る負傷や津波の低体温症など多くの患者が自衛隊のトラックで運び込まれて来て、偶々(たまたま)その現場に居合(いあ)わせた僕も(見舞い客として黙って見ている訳に行かず、)病院職員の受け入れ作業を手伝うことに自然となったのです。一日の作業を終えて父の病床へ戻った一夕、担当の看護婦さんが「今むすこさんは皆の為(ため)に一生懸命で働いてくれていますよ。」と語り掛(か)け、父が満足(まんぞく)気(げ)に二度三度と頷(うなず)いたのを、僕は偶然に目にしました。その記憶が、今日に温かく残ります。

 O病院が一段落した後は、正式にボランティア休暇を取って、職場のS高に近いN小の避難所へ入りました。安閑として指導要録など年度末の事務処理に当たる気には、全然なれませんでした。

 戦後に父と結婚した母が他界したのは平成九年で、M校で芥川「羅生門(らしょうもん)」の授業中に呼び出されました。同僚のKZ先生から(教材として作った)茂吉の連作「死にたまふ母」のプリントを頂(いただ)いたことを覚えてます。

 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる 斎藤茂吉(「赤光(しゃっこう)」より)

 当方の話しが長くなって、申し訳有りませんが、戦中派が背負った苦難に就(つ)いて推量する時、僕は戦争を知らぬことを父以上の幸運と感じます。と同時に、恵まれ過ぎて不幸に陥(おちい)った青年群像をも、生徒たちの姿に想起します。高度経済成長期に続いてバブル崩壊、失われた十年、二十年、そして今はコロナ禍(か)、、、、、

 I先生は岳父と生前どんな話しをされましたか。

 尚、失礼乍(なが)ら、この文面を例の「日記より」に転載させて頂(いただ)いて、宜(よろ)しいでしょうか。無論、個人情報の保護その他の観点から、若干の加除訂正を加える積(つ)もりですが、お許しを願えれば、幸甚(こうじん)です。

 一時けがした手で鉛筆が持てず、日記をクラスで印刷配布できずに困ったこと、その時にM校の職員室でI先生から度々(たびたび)パソ・コン操作の手ほどきを受けたこと、時に辛口の批評を頂いたこと、、、その御蔭(おかげ)で、今日まで通算二十五年間(四半世紀)日記の発行を続けています。感謝に堪(た)えません。

 停年退職し、もう藁半紙(わらばんし)に印刷して受け持ち生徒へ直接に配ることは出来(でき)ませんが、今ではEネットに掲(かか)げて、もしかしたら嘗(かつ)ての教え子たちの目に留まらないか、と夢に見る次第です。多分(たぶん)これが僕のライフ・ワークになるのかも知(し)れません。

 懐かしさの余りの長文、御容赦(ようしゃ)を願います。新型コロナ・ウイルス感染症が沈静化したら、再会できると、嬉(うれ)しいのですが。向寒(こうかん)の砌(みぎり)、どうか御自愛(じあい)の程を。         草々

令和三年霜月末の六日(金曜日)曇り                                  

     IZ先生                          H拝

(Eメールより、続く)

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