孫の花

     日記より27-11「孫の花」         H夕闇
       十一月十五日(水曜日)小春日和りの七五三
 娘から久しぶりのSOS。早朝の電車で出掛(でか)る筈(はず)だった。
 前日からの呼び出し予約だったので、予(あらかじ)め握りめしやら稲荷(いなり)ずしやら、妻は前夜から用意周到(しゅうとう)、おさおさ怠(おこた)り無かった。所(ところ)が、当日の朝、いつも早起きの夫婦が(こんな日に限って)六時まで寝過ごしてしまった。その上、余り外出などせぬ者だから、出掛けにモタモタし、結局ラッシュ時間帯に乗った。
 空席など無い。そして、込み合った車内でリュックを(背中から外して)胸に抱える習慣が一般化しているのには、驚いた。以前そういう呼び掛けが交通局から有ったことは知っていたが、最近まで殆(ほとん)ど見掛けない風俗だった。
 日本人の公序良俗とか協調性(「空気を読む」国民性)とかが目に見えた気がする。新型コロナ・ウイルス感染症が拡がって一遍(いっぺん)に習慣化した帰宅後の嗽(うがい)と手洗いは、マスクより息が永く、未だ当分は廃(すた)れないだろう。この分では、今の所(ところ)「努力義務」に留まる自転車のヘルメット着用も、(むすこが通勤に愛用するように、)そう遠からず見慣れた風景になるのではないか。

 それは兎(と)も角(かく)、昨夕の連絡では、生後九箇月の孫が初めて風らしき症状を呈したとのこと。鼻が詰(つ)まり、少々咳(せき)も出ると。息が苦しいかして、一晩中グズり、親子共々寝られなかった。T君は休みを取って、両親が揃(そろ)って小児科へ駆け込んだと言う。
 すわ、我が子が産まれて初めての病気。コロナは漸(ようや)く下火になった模様だが、インフルが反比例の如(ごと)く急激に蔓延(まんえん)しつつ有る。若夫婦の慌(あわ)てた表情が思われる。だが、診断は、昨今の寒暖差に因(よ)る鼻炎とのこと。大過が無く、若夫婦さぞやホッとしたことだろう。
翌日(きょう)娘は保育園見学会の予約が有り、そこへ風気味(ぎみ)の子を同伴して良いものか、どうか。留守居(るすい)と子守りを頼むにしても、夫は前日に年休を取った関係で仕事が溜(た)まり、更に休む訳に行かなくて、お鉢(はち)が祖父母へ回って来てのSOS、という経緯らしい。

 夏以来、僕らは伜(せがれ)に係り切りで、娘の方の孫には(心配の点で)暫(しば)し無防備だった。その虚を突かれた形である。
 然(しか)し、改めて顧(かえり)みれば、やや小さく産まれた孫娘。保育器は免(まぬが)れたものの、果たして順調に育つか、当初は大変に懸念されたものだ。その杞憂(きゆう)が暫らく忘れられていた事実は、寧(むし)ろ慶賀に値することだろう。
 実際(娘から屡々(しばしば)送られて来る動画に依(よ)ると、)嘗(かつ)て「寝た切(き)り赤ちゃん」だった者が、難なくクルリと寝返りを打ち、両手両足を器用に使って自在に這(は)い回る。そのリズミカルな四肢の動きは総合的な統制が取れており、「ハイハイ」なぞと甘く云(い)うにしては、速いこと速いこと。そして時折り乙名(おとな)を見上げ、ニマッと笑う表情が得意気である。近年こういうのを「どや顔」と関西弁で云(い)うらしい。
 居間(リビング)の隅(すみ)に置かれた飾(かざ)り棚(だな)が(特に父親の作ったシーサーが)気に入りらしく、尻を大きく振ってパタパタ急接近。目を離すと、その粘土細工を口へ持って行くと言う。舐(な)めるだけなら未だしも、口に入る大きさだから、飲み込む危険性だって有る。窒息の事態も想定される。
 だから、テーブルの下を搔(か)い潜(くぐ)って飾り棚へ向かう乳児を、目標の寸前にて、意地悪くヒョイと抱き上げねば成(な)らぬ。小さなハイハイ走者は、さぞ無念なことだろう。
 母親が玄関の方へ去ると、その後姿を目で追って、乳児は機嫌が悪い。それでも、粉ミルクで満腹し、バーバの子守り歌で眠りに落ちた。それを過ぎると寝床に下ろしても目を覚まさない、と聞く八分間を時計で測ってから、やっと解放された。やれやれ。室内を薄暗くした窓辺で、ジージは菊池寛「真珠夫人」。娘が保育園の見学を終えて帰宅するまでの一時間半、孫はジージ&バーバをユックリ中休みさせてくれた。
 それから妻は買い物に出、持参の品の他にも弁当などドッサリ買い込んで来て、昼食。離乳食の磨(す)り潰(つぶ)したバナナを与え乍(なが)ら、一方で普段から食べたかった海苔(のり)巻きなど頬張(ほおば)って、バーバも満足気である。
 腹が膨(ふく)れて、孫は昼から再度ウトウト。それに乗じて、睡眠不足の母親も休ませる。釣られてジージまで眠気が差したものだから、孫の小さな寝床の傍(かたわ)らへ横になると、昼寝など滅多(めった)にしない僕が、思い懸(が)けず三十分ばかり眠ったようだ。床板に敷いたマットは決して寝心地が良い訳ではなかったが、娘が出してくれたクッションを枕(まくら)に、タオルケットを掛けてもらうと、孫の傍らがヌクヌクと妙に快(こころよ)かった。
 寝足りた気分でスッキリ目が覚めると、隣席でも起きた気配。目がパッチリ。それでも泣かずに周囲を見回し、手足を動かしている。軈(やが)ておちょぼ口に左手の指を三本も銜(くわ)えて、もう一度ウトウト。
 その様子を、僕は薄目を開けてソーッと見ていた。指しゃぶりし乍(なが)ら安心し切(き)って眠りに落ちた無邪気な寝顔。この子が幸せに育つよう願わずには居(い)られなかった。又いとこたちに就(つ)いても同様。

 本日それらしい親子を見掛けるチャンスが無かったけれども、きょうは七五三。嘗(かつ)て日本でも子供の死亡率が高かった時代の名残(なご)りだそうだ。
 そもそも流産や死産が多く、無事に産まれても、貧しい家では口減らしさえ行われた。更に、医療の未発達も有って、幼児が事故や病気で命を失うことも稀(ま)れではなかったらしい。だから、三歳まで事なきを得て健(すこ)やかに育ったことは、家族が皆で祝うに値する程の一大事だったのだろう。
 この二十一世紀にさえ、地雷で手足を失うこと無く、飢餓や貧困からも免(まぬが)れ、健康で文化的に満五歳の誕生日を迎えられる幸福な子は、世界で十五パーセント程度と聞いた。
 僕の×番目の孫は六歳だが、来年ランドセルを背負うことを今から楽しみにしている。だが、その位(くらい)の年頃でも、この星の一部地域では、幼婚の風習が残るそうだ。いや、一夫多妻の結婚に見せ掛けて、子供が売買されることも有るらしい。近年では、人身売買された子から臓器が移植されるケースも有ると言う。 
 写真館の誇大広告に踊らされて貸し衣装で着飾る必要など更々(さらさら)無いが、長い千歳(ちとせ)飴(あめ)の袋を引(ひ)き摺(ず)った家族写真は、軈(やが)て一人欠け、二人抜けして、いつかセピア色に変わるに連れ、その価値が増すことだろう。

(日記より、続く)

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