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勝ち負けのデメリット

こんばんは。


色々あって疲れた週末。
思考にスキマが出来るとそこに悪いものが忍びこんでくるので、出来るだけいつも通りに1日を終えた夜。

たまにはあてもなく文章を書いてみても良いではないか、とnoteの投稿ボタンをクリックする。
(本当は「筆を執る」という言い方のほうが好きなんですが、、、実際にはPCのキーボードをほぼ無意識で叩いているだけ。)

さて、私の心の中にはどんな言葉が漂っているだろうか。


最近感じるのは、「勝ち負けにこだわり過ぎて、正しい正しくないを見失う人がいる」という事。

昔、岡田斗司夫さんのYoutubeで、

「人間は、
 ・勝ち負けに依存するタイプ
 ・とにかく周りとの共存を望むタイプ
 ・自分の理想型をどこまでも追及するタイプ
 ・物事をとにかく理解し知識化したいタイプ
に分かれる。」

という事を言っていたのを思い出した。

私はどちらかというと理想追及型と知識追及型の間くらいだと自己分析している。
昔から、勝負事に熱くなれず(負ければそれなりに落ち込むという事もあるが、勝つために努力するというモチベーションがどこにもない)、男の子の社会では明らかに浮いていた。
ヒエラルキーの山から一定の距離を取り、つかず離れず曖昧にしていたのだけど、私の中には明らかに勝負・上下関係みたいなものへの苦手意識があった。

思春期になると、小さな社会の中で周りと自分を比べることが始まる。
私のその頃の自我は巨大すぎて、頭の中におどろおどろしい世界を展開した。

元々の苦手意識に加えて、後天的な自我による生きづらさ。
20代後半くらいまで色々あがいた結果、私は周りと競うのを辞めてしまった。

そこからは、自分の興味があることにだけ興味が向くようになり、たまに現れる「周りを気にする自分」を、自分の時間と集中力を削ぐ魔物くらいに思っている。

ある程度の年齢になると、皆大体同じような感じになるんだと思っていた。
それが老いていくことのメリットだと思っていた。

ただ、世の中には別の次元で生きている人がいる。
人に敬われる自分でなくてはならない。
失敗をしない自分でなくてはならない。
もしそうでない自分が出てしまったら、周りを多少傷つけても、事実を多少捻じ曲げてでも、そのことを無かったことにする。

恐ろしいのは、そういった人の記憶が、どんどん本人の都合が良いほうに書き換えられていく、ということ。
それでは、反省もへったくれもない。

表面的な地位・勝ち負けにしがみつくことは、理想的な在り方を追求することとは、対局にあるように思う。


一番恐いのは、気づかないうちに自分自身が、自分が軽蔑している種類のこだわりに絡めとられること。

そうならないよう、ここに記録を残しておく。


何のまとまりもない文章でスンマセン。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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