辛い過去(調理師時代)


こんばんは🐑
かなり長くなるので起きたらそっと閉じて下さい笑

今日は「なぜ調理師になったのか」と「調理師の頃」のお話をします。最後まで見て下さったら幸いです🙇‍♀️

「なぜ調理師になったのか」からお話していきます。
私は、小さい頃から両親が共働きで2世帯住宅に住んでおり、両親が仕事の時は祖母と祖父と過ごしてました。その時に祖母と一緒に手作りそば、うどんをこねたりしていくうちに「食」に興味が湧きテレビ見るのも料理番組ばっかりでした。
私が小学校2年生の時にテレビに出てた1人のシェフと出会いその人のことを毎回見るようになり、「私もこの人みたいに美味しい料理を作りたい」って思うようになり小学2年生の誕生日プレゼントに子供用包丁をお父さんに買って貰ったのがきっかけです。
それから、中学、高校卒業して進路は悩まず調理師専門学校に進学して2年間大好きな料理を学んでました。小学校の時に出会った憧れのシェフが中華料理だったので真っ先に私も中華料理専攻して日々頑張っていました。
就職活動は、都内に出て最先端の料理を学びたいと思い有名なところに面接しに行ったんですが1次試験通過して2次試験で落ちてしまい、落ちた日は立ち直れず「こんなに就職活動は辛いもんなんだ…」ってショック受け授業も出れないぐらい泣いてました。
その帰りに不意に思い出して「志望してたところ落ちたんなら自分が小学校の時に憧れてたシェフの店で働けばいいんだ」と。当時は落ちた勢いとショックでその日に憧れのシェフがいるお店に「新卒調理師募集してますか?」って電話かけたところ「女性の方は中華料理は体力勝負なのでまずは研修を1週間来てください」と言われて1週間、都内の憧れのシェフのお店へ研修に行きました。
憧れのシェフは当然、忙しくってお店には立ってなく会えないんかなって思っていたら顔をわざわざ私のために出して下さり挨拶ができた時はもう感動したのを今でも覚えてます。
1週間研修と最終日に面接を行い地元に帰って来ました。2日後には「やる気があるなら来てください。採用です」と連絡が来て凄い嬉しくって泣いたのを覚えてます。初めてその時人生の夢が1つ叶いました。

「調理師時代」について話していきます。
調理師専門学校2年間を終え卒業をした後、憧れのシェフのお店で働くために実家を離れて都内で一人暮らしを始めました。初の都会での一人暮らしは正直怖さもあったけどそれ以上に向上心と憧れのシェフの元で働けるっていう嬉しいさでいっぱいでした。
最初の頃は女性だからという理由でホール業務から教わったり皿洗い、掃除をしてたのを覚えてます。
3ヶ月ぐらいたったぐらいに憧れのシェフに呼ばれ
「私の手作りテイクアウトの専門店をやりたいから従業員を1人欲しくってやらない?」と言われました。
それから毎朝、シェフのアシスタントとして一緒に仕事していました。「こんなぺーぺーがアシスタントでいいのかな…」って思いつつ間近で色々料理や礼儀を学ばせて貰っていて毎日が楽しかったのを覚えてます。楽しさの反面、私のところは拘束が長く早ければ朝の7時半から出勤して遅くって夜中の1時まで仕事してました。(自分のためにも朝早く出勤して先輩方が来る前に気持ちよく仕事できるように掃除やセッティングを頑張って、夜は仕込みや自分の包丁の練習をしてました。)
拘束時間は毎日約16時間とかでした。
最初の頃は向上心があり楽しさでいっぱいだったんですけど半年すぎたあたりで友達の仕事の話を聞いて気づいたんです… 毎日疲れて、休みの日は疲れて友達とも遊べる余裕もなく家で寝て過ごす日が続き…月に4回の休み(週一)、有休なし、残業代なし、家賃手当なし、先輩からの暴力、暴言…、手取り13万円…って「私ってなんのために生きてるんだっけ?」「調理師はしたいことだけど…暴言、暴力を受けてまでここで仕事したいのかな?」「給料と仕事量が釣り合ってない…」ということに。
でも、両親には反対押し切って高いお金を出してもらって家電、家具、アパート代の初期費用、少しの間生活出来るお金を出してもらってたりして「ここで頑張らないと親にもまた迷惑かけるし心配をかけたくない」と思い自分自身に「これが普通、ブラックなんじゃない。辛い思いをしないと美味しい料理は作れない」と毎日心に言い聞かせて自分自身を洗脳してました。お母さんからの電話は2日に1度来てて辛い思いを殺して「今日はこんなことがあって楽しかったよ」って辛いけど言い続けました。(心配かけたくない一心で。)
私の所は、上下関係が物凄く厳しく、例えば、下っ端が上司の飲み物がなくなったら自分で気づいて新しいのを持っていったり、持っていかなかったら偉いことになります。私も気づかず持っていかなかったら顔にお茶をかけられたこともあります。それでも謝り続けて…1年たった頃には精神も体もボロボロになっていました。私は柔道やっていたこともあって体格は普通の女性より全然いい方で太っていたんですが1年ちょっと過ぎたあたりに久々に地元の友達とあって遊んだ時に急に「いきなり痩せすぎじゃない?なんかあった?」って聞かれました。それを言われるまでは自分では痩せる…っていう感覚は全くなくって体重測ったら-25キロ痩せてて自分でもびっくりしました。めっちゃ仲いい友達で自分の今の状況を話したかったんですが、心配されたくないと言う一心で心を閉ざしてました。
毎日心を無にして必死に仕事をしてたんですが、ある日先輩に凄い怒鳴られて胸ぐら掴まれて雑巾で殴られて今まで我慢して心を鬼にしてたけど私の心は崩壊しました…
先輩が怒鳴ってる中私は過呼吸になり立ち上がることも出来ず…何言われてるのかも正直頭に入ってこず。オーナーシェフ、従業員も近くにいたけど見て見ないふり…
しまいにはオーナーシェフには「自分が悪いんだよ。やる気ないなら帰れ」と言われました。
思考回路停止するし、その場からも立ち去ったら逃げになると思い仕事を続けました。
それから疲れてるはずなのに仕事から帰ってきても寝れずボーッとして朝方眠くなって寝坊を繰り返すようになりました。(週に3回は寝坊して上司や社長から鬼電…)当然、社会人として寝坊はありえないことって分かっていても夜は寝れなくって朝方寝て遅刻してしまって毎回謝り続けて当たり前に周りからの信頼は無くなりました。
自分でもこのままじゃだめだと思い睡眠薬を貰いに勇気を出して心療内科へ行きまた。
そこではまず色々アンケートに答えてから診察でした。診察の時に「今の職場のことを全部教えてください」と。そこで初めて誰にも言ってこなかった辛い思いを全部吐き出しました。
診断結果は、睡眠障害と適応障害でした。
先生にはこのまま今の仕事を続けてると「うつ病になりますよ」と言われたのを今でも鮮明に覚えてます。その日は睡眠薬、抗うつ薬を貰い帰宅しました。
今思うとあの頃は生きてるのか死んでるのか分からない状態でした。
マンションに住んでてベランダに出て夜景を見てる時に「ここから飛び降りれたらどんだけ楽なんだろ」って思ったことも何回もあったけど死ぬ勇気なんて私にはなかったです。
後々、友達から聞いた話なんですがあの頃は顔もやつれ、痩せ方も変だと思って月に何回か地元から遠いのに私が遅く仕事終わるのを待っていて、次の日が仕事で遊べないのに様子を見に夜だけ泊まりに来てくれたりしてくれました。
友達にも心配かけたくないので元気に接してたんですがその友達には辛いってことを気づかれてたみたいですが、一切その話に触れずいつも通りにお話をしたり笑ったりしてくれました。
後々聞いた話で「このままだとこいつ死ぬ。」って思ったらしいです。
死ぬことの選択も何回も頭によぎったけど私にはそんな勇気はなくって本当に良かったです。笑
何も言わずいつも通りに接してくれたお友達には本当に今でも感謝しきれないです。
気づいたら2年たっていて、精神、体もボロボロで仕事中に倒れてしまい、親呼ぶ騒ぎになり…
私はもう限界を超えて仕事なんて出来ない状況で地元の方へ親と友達に地元に強制送還になってしまいました。

最後に…
その頃は逃げたって言う罪悪感と周り迷惑かけたことで頭がいっぱいでした。
今思うと私を無理やり地元に連れて帰ってくれて本当に感謝してます。
今は、20-22歳の頃の話でもう数年経っているのでやっと笑えるぐらいの話になってきました。
今も仕事で辛い思いをしてる方が居たら今すぐ環境を変えてくださいって伝えたいです。
私は我慢し続けた結果、人間不信にもなったし睡眠障害も中々治らず最近やっと良くなってきました。
転職するたんびに社交的な方なんですが人間不信のところがまだ克服出来てなく、新しい職場に慣れるのには物凄く時間かかってます。
昔よりも初対面の人とも話せなくなり人見知りが激しくなりました。克服しようと思い色んな人と合うようにしてるんですが心のどっかでまだ怖いという自分がいて前に進めてない状態ですが今年は初対面の方とも話せるように昔の自分を少しずつ取り戻せたらいいなーって思ってます。

凄く語りすぎちゃってすいません🙇‍♀️
まとめ方や文章を書くことは滅多にないので恐ろしく話が行ったり来たりで分かりずらいと思いますがそこは勘弁してください。笑

最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございました。

次の投稿は「なぜ調理師から介護の道へ」です!

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