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「スカーフと記憶を無くした男」超短編小説

3月4日 スカーフの日
日本スカーフ協会が制定
スカーフのかたち、三角形と四角形の3と4から。

まだ思い出せないの?

女性はその整った美しい顔を不機嫌にゆがませた。
何も思い出せない僕にうんざりしている。
僕のことなど、視界にすら入れたくないと言わんばかりにそっぽを向く。
ああ、待ってくれ。ちゃんと思い出すから。
彼女が僕に飽きてしまうのが怖い。
興味をなくして、どこかに行ってしまうのが怖い。

白くて狭い部屋。
美しい女性とふたりきりの自分。
僕はこの女性に対する記憶をなくしていた。
記憶はないのに、なぜか分かる。僕はこの女性にずっと夢中だった。
脳の記憶は引き出せないのに、心の感覚は引き出せる。
心が彼女を求めている。

彼女は僕に思い出すように要求している。
それなのに僕は自分の身だしなみが気になって仕方がない。

僕は今日、何を着ていた?
風呂には入ったか、ひげはそったか、変な匂いはしていないか。

彼女をちらちらと見る。
緊張して、じっと見ることができない。
黒く艶やかな髪、目鼻のはっきりした整った顔。すらりと伸びた手足。
どこも完璧で美しい。陶酔してしまう。
高価な美術品を鑑賞している時のように、僕の心は満たされていく。

彼女を見ていると記憶が触発される。
そうだ、彼女は。
行き交う学生で混雑している古い校舎内、彼女はひとり、颯爽と歩いていた。
誰もが息をのみ、彼女に目を奪われる。どんなに人がいても彼女は目立っていた。
僕も口をぽかんと開けたまま彼女に見とれた。
そのたった一瞬。たった一回見ただけで僕はもう彼女のとりこ。
それからは寝ても覚めても彼女のことばかり。
彼女を一目見るために大学に通っていた。

ある日、友達と談笑していると、彼女が近くを通りかかった。
会話を続けながらも僕たちの意識は彼女へと向いていた。
友達がふざけて僕を彼女の方へ突き飛ばす。
勢いあまって、彼女の前で僕は転んでしまう。持っていた教科書が散らばる。
恥ずかしさをごまかすようにへらへらしながら教科書を拾う。
彼女は、人を見下したような不敵な笑みを浮かべて僕をいちべつしただけですぐに去っていった。

そうだ、それだけだ。彼女に近づけたのは。
会話すらない、目が一瞬あっただけ。

その一回だけだったはずなのに、次に脳によぎるは赤いスカーフを首にまいた彼女。
スカーフ?
彼女がスカーフを巻いていたことなどあっただろうか。
校舎で見かける彼女はいつも首元を露出していた。

彼女は自分で赤いスカーフを巻いたのではない。
それは僕が首を絞めるために彼女の首に巻いたもの。
赤は君にとても似合っていた。

これで君は永遠に僕だけのもの。
僕の予想では、完璧に満足できるはずだった。
それなのに、何の喜びも沸いてこない。
感じるのは果てしない渇望。
何も、満たされない。
何も、手に入れられていない。
しでかしたことへの、激しい後悔。
もう二度と動かない、君。

なんて馬鹿なことを。
事の重大さに我に返る。

おそるおそる君を揺さぶる。
ピクリとも動かない。
完全にこと切れている。

君を揺さぶる手に力がこもる。
心臓あたりをどんどんたたく。
口に息を吹き込む。
あんなに焦がれた君の唇なのに、何の感動ももたらさない。

戻ってきて、戻ってきて、もどってきて、もどれ、もどれ、もどれ、
あああああああああああああ!

頭をかきむしる。髪がたくさん指に絡まる。
喉をかきむしる。息が吸えない。
体中をかきむしる。かきむしったところから血が出てくる。
涙、鼻水、よだれ、穴という穴から水が出てくる。
なんなんだ僕は、きえろきえろきえろきえろきえろ

気づいたら周りに人がいた。
その人達は僕をしかるべきところに運んでくれた。
そうして今はここにいる。

白くて狭い部屋。扉には鍵。

思い出したの。
満足そうに微笑んで君が言う。

人を殺しておいて忘れているなんていい気なものね。
でも、思い出したのならいいわ。
その渇望を抱えて、一生満たされることなく生きてなさい。

不敵な、あの笑み。

そして君は消えていく。
僕は君を永遠に失う。

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