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PAIN(創作短編)

涼にまた殴られた。
理由なんて意味がない。涼は殴りたいほど頭に来たから私を殴る、それだけ。

私のTシャツの胸元を掴んで、アザラシになった身体をずるずると引きずる。顔や頭を殴ることもあるけど、今日はそのまま力任せに床に投げつけられた。はずみで頬から頭の横にかけて打った。畳に擦れた耳が熱を帯びて痛い。
怖くて、両腕で頭を抱えて私は、怯えたウサギのように泣いてしまう。

涼は再び私の胸を掴むけど、怖いからもういやだと小さい悲鳴を上げると、一瞬迷って私を床に置いた。そして両手を震わせながら部屋を出て行く。置いてけぼりを食らって少しだけ泣きながら、涼の怒りが解けるのを待った。

今日は何がいけなかったんだろう。たぶん人に話せばほんの些細なこと。
涼の友達への口の聞き方が慣れ慣れしいとか、その程度のこと。
涼はやがて静かに部屋に戻ってくる。カーテンに隠れるようにして泣いている私を、後ろからそっと抱きしめるために。

どこも痛いところはないかと言いながら首筋にキスをする。いつもならくすぐったくて笑っちゃうけど、今日の心は何も言わない。 石ころみたいに硬いまま。やがて慣れた手つきで、涼は私の身体を自分のものにしようとする。昨日と同じ順序で私を導こうとするけど、石の心は重量感を増すだけ。
やがてかつて柔らかだった涼の指や唇は、針金となって私の皮膚に絡み始める。針金の指が通った表面はきりきりと痛み、私の内側では子宮に赤い涙が流れ込む。

やがてひとりで部屋を出ていった涼は泣き始める。
子供のように背中を丸めて、自分の足を抱きしめながら。

私を殴ることで、イチバン傷ついているのは涼なのだと思ってしまう。
涼を置き去りにしてこの部屋を出て、針金の唇を持たない男に抱かれ、私ひとりがしあわせになることなど、出来そうもないと思ってしまうその刹那。

涼はときどき仕事をする。

そんな日は学校に行けるけど、涼が家にいる日は、あまり学校には行けない。一人暮らしを反対した両親を必死で説得して進学した大学なのに、ここ2ヶ月くらいほとんど顔を出していない。
涼が、俺がいるのに何故学校にいくんだなんて機嫌が悪くなってしまうから。そんな涼を置き去りにして行くことが、私にとってそれほど重要じゃなく思えるし、 私だって涼と居たいし。

怒らずにいてくれる涼は、本当に優しい。私のためにおいしいパスタも作ってくれる。涼が作るペンネアラビアータは辛くてとてもおいしい。
知り合った頃涼が働いていたレストランの、いちばんのお勧めメニューだった。

そろそろ寒くなってきたし、新しいブーツを買いに行きたいと誘ったら、突然涼が怒り出した。機嫌のいい日なら、買い物も映画も一緒に来てくれるのに、今日は機嫌が悪かった。 気付かなかった私がうかつだった。
このまえも服とか買っていただろう、そんなに自分を着飾ってどうするんだ、 男でもたぶらかしたいのか、言いがかりだと言い返せなかった。
おまえなんて俺が本気出せば、腕の1本くらい簡単に折れるんだぞと言いながら、私の腕を後ろでねじ上げる。
もういいよ、本当に折れちゃうよ、わかったよ、痛いよ、最後は悲鳴へと変わる。
本当に折れちゃうよ。
涼が手を離したあと、悲しくてベッドに顔を伏せて泣いた。
ごめん、泣くほど痛かったのかと、涼が後ろの髪をさすってくれる。
付き合う前に、その長い髪が好きなんだと言ってくれた私の髪を。

俺のこと嫌いになるか?俺のこと捨てたくなったか?
子供みたいに悲しそうに聞くから、思わず私は涼を見上げる。
「大丈夫、そんなことないよ、私涼のこと好きだから」

ダイジョウブ、ダイジョウブ、こんな涼を置いては行けない。
いつかこの痛みが、私のココロを壊してしまう日が来るまで、ここにいるから大丈夫。

夜に涼がどこかへ出て行ったあと、涼が飼っているカメをいじった。
丸い透明のポリ容器に入れられたカメは、人が近づくと寄って来る。指を出すと齧られそうなので、恐る恐る2本の指で、そおっと甲羅を掬い上げてみた。カメは、恐ろしそうに首を引っ込めて、手足を平泳ぎしているようにばたばたさせていた。

ここに来た日の涼の荷物は僅かだった。お友達の車の後部座席に乗る程度。洋服が入っていた鞄が2つにマンガが入ったダンボール1箱、 それからカメが入っていた小さいポリ容器。冷蔵庫とか余計な家具は友達に売ったんだと笑っていた。困ったなと思ったけれど、涼といつもいられて嬉しいと思った。あの夜はほんとうに嬉しいと思ったんだ。

このまま落としてしまったら、カメは床に落ちて死んじゃうかな。
それとも壁に思いきりたたきつけたら死んじゃうかな。
でも、死んじゃったら、涼になんて言い訳しよう。
それによく見ると、私のことを上目遣いで見ていたりしてなんだかかわいい。
なんだかカメが好きになったから、一緒にお風呂に入ることにした。
湯船に浸かりながらもう一度カメを持上げて、「君はちっぽけだね」と言ってみた。
こんな私に簡単に持ち上げられて、このまま落とされてしまうかもしれなくて。
身体がだんだん温まり、ココロも少しずつほぐれてくる。

2本の指で掴んだまま、『ブーン』と言いつつ空を飛ばしてあげた。そして、そのままお湯へは戻さず、浴槽のふちに置いてみた。まっすぐ行けば落ちないからねと教えてあげたのに、カメは2、3歩進んで、突然右へ針路変更し、あっという間に洗い場に落ちてしまった。

慌てて拾い上げようとすると、カメは逆さで必死にもがいていた。手足をばたつかせながら、首の力だけでなんとか身体の上下を戻そうとしていた。ニンゲンなら脳震盪くらいは起こすところだよと、カメに言って聞かせる。
何事もなかったように元に戻ったカメは、スタスタと排水溝に向かって歩き始める。
まるで、その先に広がる川や海を知っているみたいに、ある種の確信を持って。

「まだだめだよ」そう言ってカメをピンクの洗面器に移し変える。
何度も外へ出ようとして、やや傾斜した洗面器の壁を登るけど、どうしてもうまく行かない。
そう、それでいいの。
洗い場で、長い髪に残るシャンプーを、シャワーでじゃんじゃん流しているうち、何故だか涙が溢れてきた。シャンプーの成分がきれいに流れ去った後も、洗い続けて私は泣いた。
カメは私、私は涼、私はカメで、涼は私…。
ぐるぐる回って、涙が止まらなかった。

カメを洗面器に残したまま風呂場から出ると、涼が帰っていた。
「おかえり、今カメとお風呂入っていたんだよ」
「カメと? おまえって変だな、やっぱり」
よかった、機嫌がいいらしい。機嫌が悪ければ、カメとお風呂に入ったことさえ 怒りのきっかけになってしまうんだから。

冷めないうちに入ればと言い終わらないうちに、涼が私の唇をふさぐ。かつて柔らかだったその唇は、今は冷たい粘膜みたいで気色悪い。
大丈夫、私は人形、私は人形と言い聞かせながら拳に力をいれて耐えた。
私は人形、そうつぶやきつづける心の隅で、小さく灯った豆電球みたいな言葉を私は発見する。

アシタ、ココヲ、デテイコウ

今までそうしなかったのが不思議に思えるほど、当たり前のことだった。
アシタ、ココヲ、デテイコウ。
人形になった私を、満足そうに抱く涼の胸の中で、明日カメも連れて行こうと思った。
そう考えると安らかな気持ちになって、私は黙ってまぶたを閉じた。


ゴザンスマガジンに掲載された作品
ゴザンスマガジン創刊号

※この作品は、ゴザンスマガジン創刊号(2001年10月発行)に掲載されたものです。
ゴザンスマガジンはメールマガジンサイト「ゴザンス」が2001年に出していたもので、インターネット上で作品を発表している書き手と、出版業界を結ぶことが目的のタブロイド紙です。

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