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マロオケのこと vol.2

マロオケは東京で公演したことがなく、熊本や北九州でしかやっていない。そのことは何となく知っていたけれど、東京初公演ということはあまり意識していなかった。なぜなら、わたしは「マロオケ」「モーツァルト」「サントリーホール」この三つのキーワードしか頭になかったから。

それを実現できるかどうかのマロさんの答えは、まずサントリーホールが取れるかどうか。取れたとして、その日程にメンバーを集められるかどうか。

サントリーホールは1年半前から予約を受け付けている。しかし、在京オーケストラには定期公演のために2年前から受け付けていて、いい日程は先に押さえられている。さらにそこに海外からの名門オーケストラの公演もある。

わたしはここ数年、ずっとゴールデンウィークの5月5日にイベントをやっていて、昨年もマロさんに銀座の王子ホールで「マロのパーフェクト・ブラームス!」として、ブラームスのソナタを全曲演奏してもらった。

ゴールデンウィークはフェスティバル感もあって、旅行へ出かけるひとはいるとは言っても、平日だと勤めがあるひとは来ることができない。だからゴールデンウィークにやりたいと考えていた。

しかし、マロオケの企画を持ちだしたのがすでに1年半を切っていて、平日ならサントリーは取れるかもしれないが、土日祝日となるとどうかわからない。

また、マロオケで演奏できるメンバーは一流奏者ばかりで、日々、スケジュールが詰まっている。そんな彼らを交響曲ができる人数を弦楽器から管打楽器まですべて揃えるとなると、確率的に難しい。

物理的にはこの2点がマロオケ東京初公演のクリアすべき課題だった。

さらにもうひとつ、マロオケが東京で公演するには物理的でない問題があった。それはわたしが考えもしなかったことだった。

マロオケは各プロオーケストラからコンサートマスター、さらに首席クラスの奏者をいわばヘッドハントして、この日のためのオーケストラを創る。

いわば、野球でいうワールドベースボールクラシックの日本代表といった感じだろうか。

つまり、奏者たちが所属オーケストラを抜け出すと、そのオケが機能しなくなってしまう。それはオケを運営する立場からすると当然困る。

またゴールデンウィークの客をマロオケに取られてしまうという懸念もあるかもしれない。

さらに指揮者なしで交響曲をやるから、指揮を生業とするひとからは指揮者なしでオーケストラをやられてしまっては、面子がない、つまり指揮者なんていらないと思われると、自分の立場が揺らぐと思うかもしれない。

それゆえ、マロオケはプロオーケストラがない地でしかやりようがない事情が薄々とあった。

だから、プロオーケストラがひしめき合う東京でマロオケをやるとなると、もしかすると各プロオケ、さらにはオーケストラ連盟が主催者に何か言ってくるかもしれない、そういう話をマロさんから聞いた。

でも、わたしの腹は決まっている。25番のシンコペーションでコンサートが幕開け、ラストはモーツァルト最後の交響曲である第41番「ジュピター」のあの壮大なフーガがサントリーホールに響き渡る。この感動を日本的ムラ社会のしがらみなんかで諦めるわけにはいかない。

「大丈夫です。わたしは爭いごとは得意なんです。何を言われても平気です。ですから、マロオケを東京でやりましょう」

すると、マロさんは、

「マロオケの東京殴り込み公演だね」

「そうです。殴り込み、やりましょうよ!」

こうして2014年の年末にとりあえずマロさんと合意して、ホールの確保や奏者のスケジュールの調整をすることになる。

しかし、銀座王子ホールでの「マロのパーフェクト・ブラームス!」を弾き終えたあとの打ち上げで、マロさんが告白するには、マロオケをサントリーでという話は、ジョークだと思っていたらしい。ところがわたしがサントリーホールに申込みし、頭金を払ったところでジョークではないとわかったという。

日本で最高のコンサートホールであるサントリーで、悲願の東京初公演ができるというすごさにわたしが気づいたのは、ずっと後になってからで、わたしにはマロオケでモーツァルトを聴きたいという思いしかなかった。

わたしはもともと芸術至上主義なところがあって、その目標が美的であれば突き進む。価値を美に置いているから、それを妨げようとするものがあったとしても怖気づくこともない。

人間的なしがらみや都合で、美が否定されるのは馬鹿らしい。

マロオケにしか出せない音があり、その演奏は世界水準であり、しかも徹底してモーツァルト。

美というものは、ひとに媚びてはいけない。迎合するものではない。だから、マロオケ東京初公演は、モーツァルトの美的なサウンドだけを楽しみたいというわたしの思いだけで、このプログラムは組まれている。

通常、コンサートでは客受けのいい曲を入れたり、演奏時間を考慮したりして企画される。しかし、マロオケのコンサートはそんなことは一切考えずに、やりたいことだけをやる、そういう内容。

そして、マロオケメンバーたちもマロさんを中心とした仲間たちが音楽を奏でたいという思いでつながり、指揮者に指図されることなく、思う存分、自分たちの音でモーツァルトを演奏する。

企画そのものがお客さんに媚びていない。しかし、わたしは思う。そういうものこそ、お客さんのためになるのではないかと。

こなす演奏ではなく、奏者が思い切り音楽を楽しんで、全力で弾く演奏こそが、お客さんに感動を与えられる。そして、それを聴きたいというお客さんが身銭を切ってチケットを買ってくださり、観客席に座る。

お客さんの意識も高い。演奏者の意識も高い。その緊張感と期待はモーツァルトの音楽を通じて融合し、コンサートホールが宇宙になる。

媚びないゆえの真剣さ。そういうものがステージと客席にみなぎったとき、音楽は天上を感じさせる感動を生む。

その価値のすばらしさを確信しているから、わたしはクラシック音楽業界から何を言われようが怖くない。

しかし、それも杞憂で、ヘッドハントしたオケからもオケ連からも何も言われていない。

まずは音楽ありき。それが共通認識になっているからだと思う。

「争い事が得意だ」というのは半ば冗談で、マロオケのメンバーがこうして一流であるのも、各プロオーケストラが育ててくれたからでもあるから、敬意を払わなければならないと思う。

ともかく、いろいろな意味でマロオケ東京初公演は特別なものであることは間違いない。

                      (vol.3に続く)

マロオケ2016公式ホームページ http://maro-oke.tokyo/

マロオケ2016公式フェイスブック https://www.facebook.com/marooke/

チケットぴあ マロオケ2016 http://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1540527



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