しろくま彼氏

あたしの彼はシロクマだ。
シロクマ系男子だとかそんな比喩ではなくて(シロクマ系男子なんてあたしは聞いたことないけど、最近は男のタイプも細かく系統だてて分類される時代らしいから、そんな言葉があってもおかしくないはずだ)、正真正銘、本物のホッキョクグマ。体長2メートル35センチ、全身が白い毛で覆われていて、たっぷりした脂肪と筋肉がついた頼もしい腕と、惚れ惚れするくらい分厚い胸板を持っている。三日月みたいな形の鉤爪が並んだ前足には、キュートな肉球だってある。
彼とあたしが初めて出会ったのは市役所の税務課で、あたしはそのとき上司から頼まれた書類を出しに来ていた。税務課のドアを入ってすぐの、「受付」のプレートが置かれた質素な白いカウンターの中に、彼は背筋を伸ばして礼儀正しく座っていた。パリッと糊が利いた白いワイシャツをきちんと着て、ブルーの格子柄の洒落たネクタイまで付けていた。受付には他に誰もいなくて、奥のデスクで何人かが働いているのが見えた。
「あの」
あたしはおずおずと口を開いた。
「どなたか、これお願いできますか?」
今思うと笑っちゃうのだけど、あたしは最初彼のことを、市のマスコットキャラクター人形か何かだと勘違いしてしまったのだ。どうせシロクマのぬいぐるみに着せるなら、シャツの色は白以外の方が毛並が映えていいのに。なんて呑気に思いながら誰かが対応してくれるのを待っていると、
「どうぞ、こちらで承ります」
突然目の前のぬいぐるみが喋ったからビックリした。何も言えずに目をパチパチさせていると、ぬいぐるみがあたしを見てフッと笑った。健康そうなピンク色の口蓋と白く尖った犬歯が覗いて、口からはほんのりと獣の匂いがした。慌てて周りの様子を窺ったけれど、そこで働いている人たちはみんな、コピーをとったり、カタカタとパソコンのキーボードを叩くのに忙しくて、誰もこちらの事なんか気にしてない。
「びっくりさせてしまったようですね、すみません。初めての方は、みなさん驚かれるんです」
彼は申し訳なさそうにそう言って、
「でも安心してください。僕はここの職員です。ほら」
首からぶら下げたカードを誇らしげにあたしに見せた。市のマークが入ったIDカードには、毛むくじゃらの顔をした彼の写真とともに「N市役所税務課」の文字があった。
「それで、今日はどういったご用件ですか?」
ツヤツヤと濡れたような黒い目で見つめられて、
「あ、あの、これ……」
へどもどと返事をしながら持ってきた書類を差し出した。前足で器用に紙の束を受け取った彼が、真剣な顔で紙面をチェックする。
「処理いたしますので、少々お待ちください」
そう言っていったん奥に引っ込み、パソコンの画面を見ながらキーボードをいじっている。あの前足でどうやってキーを叩くのかしら、と思いながらぼんやり見ていると、ほどなく部屋の隅に置かれたプリンターがガーガーと音を立てた。吐き出された紙を手に、彼が再びカウンターに戻ってきて、あたしの前に座る。体重を一身に受けた椅子がギッ、と音を立てた。
「それでは受領証をお渡ししますね」
カウンターの引き出しから大きめの朱肉をとりだし、おもむろにふたを開ける。ティッシュペーパーで丁寧に左前足を拭き、ペタペタと肉球を朱肉に押し付けた。持ってきた書類の右下の枠にぐ、と前足を押さえつけるように置き、たっぷり3秒待ってから離す。くっきりとうつし取られた足跡を満足そうに眺め、今度は逆の順番で──ティッシュペーパーで丁寧に左足を拭い、朱肉の蓋を閉めて、引き出しの中に入れる──几帳面にカウンターの上を片付けた彼があたしを見た。
「お待たせいたしました」
すっと差し出された書類を、ぎくしゃくと受け取る。
「あ、ありがとうございます」
ごにょごにょと呟いてくるりと背を向け、そのままそそくさと出口に向かって歩いた。ドアの前でこっそりと振り向くと、彼は同僚と話しているところだった。
「シロさん、あの件なんだけど……」
ぼそぼそと話す声が聞こえる。ぼうっと眺めていると、視線に気付いた彼が、あたしに目を向けてニコリと笑った。慌ててドアを開けて廊下に飛び出し、階段を駆け下りた。
「シロさん、かぁ…」
市役所の外に出て、よく晴れた空の下を、自分の影を見ながらてくてく歩く。その時あたしはもう、完全に恋に落ちてしまっていたのだった。

それからのあたしは、自分史上類を見ないくらいに頑張ったと思う。苦手な上司の雑用を全部引き受けて市役所に通い、3回目で自分の連絡先を書いた紙を渡すことに成功した。律儀な彼はその夜きちんと電話をかけてきてくれて、有頂天になったあたしはすぐにデートに誘った。シーフードが好きな彼のために、料理教室に通って魚を三枚におろせるようになったし、嫌いだった青魚も克服した。週末のデートを何度か重ねたある日の帰りに、思い切って家に誘った。彼とあたしがめでたく付き合いだしたのは、出会ってから3ヶ月後のことだった。
「育子さんには参ったよ」
付き合って2年経った今でも、時々彼はあの時の事を持ち出してあたしをからかう。今みたいに、あたしの部屋でのんびり過ごしているときなんかに。
「発情期のシロクマよりも精力的なんだもの」
あたしはぶぅ、と膨れてみせる。彼の膝の上で、毛むくじゃらの腕に後ろから優しく抱っこされながら。だってしょうがないじゃない、シロクマを好きになるなんて人生で初めての事で、なりふり構ってられなかったんだもの。
「こんなの、シロさんだけよ」
振り向いて、濡れた鼻先にキスをする。市役所の人たちと同じように、私も彼のことをシロさんと呼ぶ。シロさんの本名は、本当はもっとずっと長いのだけど、シロクマの言葉は難しすぎてニンゲンのあたしには上手く発音できないのだ。
フカフカの胸に抱きついて顔を埋めると、シロさんの手があたしの背中にまわされた。シロさんの腕の中は、何ていうか、すごく収まりがいい。まるであたしのために作られた、完璧な場所みたいだと思う。たぶんシロさんにとってあたしがそうであるように。
甘えんぼう、と呟いてシロさんが笑うと、息があたしの顔にかかった。獣独特の匂いがふわりと鼻を掠める。
「シロさんの息って、なんだか生臭いね」
胸から顔を上げてそう言うと、
「きっと、今朝食べたアザラシの匂いだ」
シロさんがイタズラっぽく笑った。
「シロさん、アザラシなんて食べるの」
ビックリして聞くと、
「食べるよ、もちろん。野生のシロクマなら誰だって食べる」
当然といった顔で返された。ふぅん、そうなの。なんか凄いね。ポカンとした顔のまま、気の利かないセリフをごにょごにょと呟いたあたしの頭を、シロさんの手が優しくて撫でる。あたしの頭が潰れてしまわないように、優しい力で。
「シロクマと付き合うって、あんたそれ本気?」
シロさんの事を打ち明けたとき、友達はみんなそう言った。
「目を覚ましなよ、育子。私達とは住む世界が違うのよ」
誰もがあたしを説得しようとして怒ったり、お説教したり、時には泣いたりしてみせたけど、あたしはシロさんと別れる気なんてさらさら無かった。あたしが絶対に言う事をきかないのが分かると、最後にはみんな「まぁ、育子がそれでいいならいいわ」と諦めたように首を振るのだった。
だけどみんな知らないのだ。シロクマと付き合うのって、ニンゲンの男の子と付き合うのとほとんど変わらない。メールや電話は毎日するし、週末には必ずデートをして、その後はどちらかの家に泊まる。もちろんセックスだってちゃんとする。彼のたくましい腕や、滑った舌の感触や、黒々としたペニスの形を思い出して、あたしはうっとりとため息をつく。シロさんとのセックスは、ニンゲンの男の子とするよりも断然イイ。そりゃあ、あたしだって最初に彼を誘った時はちゃんとできるかどうかすごく不安だったけど、結果的には問題なんて何もなかった。お腹の下の長く柔らかい毛の間から覗いたペニスは意外なほど控え目な大きさで──後から知ったのだけど、シロクマのペニスって身体の大きさに比べてずいぶん小さいみたいなのだ──最初に見たとき、あたしは心から喜んだ。これならあたしでも受け入れてあげられると思ったから。
「シロさんのって、可愛い」
それは純粋な賞賛だったのだけど、シロさんは傷付いたみたいだった。
「シロクマとしては、標準的なサイズなんだよ」
とブツブツ呟いた彼を、でもやっぱりあたしはとても可愛いと思った。
シロさんはとても行儀のいいシロクマなので、セックスの時はいつもあたしを四つん這いにして後ろから被さってくる。(当たり前だ、動物はみんなこの姿勢でするのが正式なのだから)
大きな身体の下になって、首筋に彼の荒々しい息使いを感じるとき、あたしは自分が捕食される側の生き物だという事を強く意識する。その気になりさえすれば、彼は簡単にあたしを殺せるだろう。あのたくましい前足で背中を押さえつけて、頭からバリバリとあたしを食べるのだ。きっと骨も残さずに。その考えは、あたしをたまらなく興奮させる。あたしの身体は血の一滴に至るまで丸ごと全部彼のもので、生きるのも死ぬのも彼の手に委ねられているのだ。そしてそれは、なんて幸福なことなんだろう。
「ねぇ、シロさん。夏休みは一緒にあたしの実家に帰ろうよ」
シロさんの腕の中で、彼の顔を見上げながら、あたしはさも今思いついたように提案してみる。シロさんは本来寒い所の生き物だから暑さにはからきしダメで、今まで夏の休暇は、外には出ないでどちらかの部屋で過ごすのが常だった。だけど今回あたしは決心していた。
「両親にね、シロさんのこと紹介したいの」
本当はずっと考えていたことだった。あたしだっていい歳だし、そろそろ頃合いのはずだ。
「育子さんの両親に?」
シロさんは目をパチクリさせてあたしを見たあと、
「それは……やめとこうよ」
珍しく歯切れの悪い返事をした。
「なんで?」
あたしはびっくりしてしまった。てっきりシロさんは、あたしの提案を喜んでくれるとばかり思っていたのだ。
「だって、僕はシロクマだし」
あたしは裏切られた気分だった。あたし達はこんなに愛し合ってるんだから、そんなの関係ないとあたしは思っていた。シロさんもそうなんだって、信じていたのに。
「なんでそんな事言うの?」
すっかり悲しい気分になってそう言った。
「シロさんはあたしのこと、愛してないの?」
シロさんは困ったような目であたしを見て、
「そうじゃないよ。僕は育子さんを愛してる」
優しくあたしの頭を撫でた。
「でもね、ご両親の気持ちを考えると、そうするべきではないと思うんだ」
あたしは信じられない気持ちでシロさんを見る。ご両親の気持ち?
「そんなの関係ないじゃない」
「ねぇ、育子さん」
シロさんの手が、あたしの肩に置かれる。
「僕は育子さんに幸せになって欲しいんだよ」
聞き分けの無い子どもに言い聞かせるような声でそう言われた瞬間、あたしの中の何かが爆発した。
「あたしの幸せを勝手に決めないで!」
パシリと手を払い除けて叫んだ。シロさんがびっくりしたような顔であたしを見る。もっと言ってやろうと思って息を吸い込んだ瞬間、大きなクシャミが出た。
「大丈夫?」
ズルズルと鼻をすするあたしに、シロさんが心配そうに声をかける。この部屋の温度はシロさんに合わせてるから、あたしには少し寒過ぎるのだ。
「最低だよ」
シロさんが肩にかけてくれた上着に手を通しながら、恨みがまし目で睨みつける。
「今度あんなこと言ったら許さないから」
そう言って、すっくと立ち上がる。
「どこ行くの?」
不安そうに尋ねるシロさんに、
「晩御飯作るの!」
そう答えて部屋を出た。
一人暮らしのあたしの部屋は狭いけど、キッチンだけはそこそこ広い。大きな冷蔵庫が置けるように、シロさんと付き合い始めてから引っ越したのだ。去年のボーナスで奮発して買った立派な冷蔵庫の前に立って、扉を乱暴に開く。あたしは傷付いていた。さっきのシロさんは、シロさんと別れなさいって説得してきた友人たちと同じ目をしていて、それが我慢できなかった。
野菜室からじゃがいもと玉ねぎと人参を出して、どんどん床に置く。シロさんの立派な体を維持するには、とにかくたくさんの食べ物が必要なのだ。今日の夕飯はカレーにするつもりだった。カレーはあたしの好物だけど、鼻のいいシロさんは刺激物が得意じゃないから、普段はカレーなんか作らない。けど今日のあたしはすごく怒ってるから、そんなの気にしない事にする。
キッチンカウンターにごろごろ並べた玉ねぎの皮を剥きながら、ふと、そういえば最近は友だちと会う機会がめっきり減ってしまったなと思う。以前のあたしは付き合いが良い方だったはずなのに、シロさんと付き合いだしてからは、流行りのスイーツだとか、新しいテーマパークとか、職場の愚痴を言いながら飲んだりだとか、そういう事にうまく興味を持てなくなってしまったのだ。
カウンター下の棚からまな板と包丁を取り出して、玉ねぎを刻む。
シロさんが本当はアザラシなんか食べた事がないのを、あたしは知ってる。詳しい経緯は知らないけど、シロさんの一家はおじいさんの代に日本にやって来たらしい。シロさんはここで生まれてここで育った。今まで一度も里帰り(シロさんの故郷は言うまでもなく北極だ)した事はなくて、それどころか海外にも行った事がないらしい。
「僕は生粋の日本人なんだよ」いつだったかあたしにそう言った、シロさんのいたずらっぽい目を思い出す。この日本では、アザラシの肉なんか手に入らない。
玉ねぎが滲みて、あたしは包丁を止めて目を瞑った。閉じた瞼にキッチンの蛍光灯の光があたって、視界がぼんやりと白く輝く。
いつかシロさんと一緒に、北極に行ってみたいなと思う。白く気高い姿でアザラシを捕らえるシロさんは、きっと他のどんなシロクマよりも素敵だろう。流氷の上に乗ったり、スイスイと海を泳ぐシロさんの姿は、窮屈なスーツを着て受付に座っているときよりも、ずっと自由でずっと魅力的だろう。
ため息をひとつついて目を開け、手の動きを再開する。
でも、とあたしは思う。北極はニンゲンには寒すぎて、きっとあたしはそこでは生きていけない。
玉ねぎが目に滲みて涙が溢れたけど、あたしはかまわずどんどん刻む。
可哀想なシロさん、と呟く。大粒の涙をボロボロと零しながら。可哀想なあたし。
玉ねぎは沢山あって、切っても切ってもきりがなかった。一人きりのキッチンで、あたしはシロさんのためなのか自分のためなのか分からない涙を、いつまでもいつまでも流し続けた。

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