龍眠る宿 15

第15話 思い上がり

 早朝から地味な作業だった。ニュース番組の録画映像をチェックし、うちが映っているシーン、特にココアが映っている部分を中心に抜き出し、PCに保存する。新聞記事も同様に、ココアが写っていたら切り抜いてスキャナにかけて、PCに保存する。今、テレビでは朝のワイドショーをやっている。これもまた、ココアが映れば映像を抜き出さなければならない。

「どうだい、進んでるかね」

 八大さんがコーヒーを淹れてくれた。

「進んではいますけど、目がチカチカします」

「慣れない作業だからね。まあ頑張ってくれたまえ」

「こんなに映像集めてどうするんです」

「決まっているだろう、ココアのプロモーションビデオを作るのさ」

「プロモーションビデオ?」

「まず日本のマスコミにこれだけ注目を浴びた、という事実を並べる事で箔をつける。その上で里親を募集する。もちろん無料でだ。とは言え誰でも良いという訳では無い。ちゃんとココアを飼えるかどうか、厳正に審査する。その為には必要な情報を開示してもらう。などといったことを一本の動画にまとめ、英語・中国語・ロシア語・アラビア語で字幕を付けて動画サイトを通じて全世界に公開するのだ」

「それで里親見つかりますかね」

「見つかるね。金持ちは高い物にしか興味が無いと思ったら大きな間違いだ。連中はタダって言葉も大好きなのだよ。ましてドラゴンだ。普通のルートでは手に入らない。金はあってもルートが掴めず臍を噛んでる奴らは世界中に居る。送料が幾らかかっても絶対に欲しいと思う奴は必ず現れるさ。まあそれは一番の目的ではないのだがね」

「一番の目的……ヴリトラを怒らせる事ですか」

「そうだ。生者必滅会者定離、いま金を持っているからといって、明日もその金があるとは限らない。それは金持ちが一番よくわかっている。特にドラゴンを飼えるか飼えないかのギリギリボーダーラインの連中にはシビアな問題だ。今日はドラゴンが飼えている。だが明日飼えなくなったらどうしよう。そんな心配をしている金持ちも、世界にはきっと居るさ。そんな時、ドラゴンの飼育知識をちゃんと持った会社が里親探しをしてくれるとなればどうだろうか。きっと心強いと思うね。何かあったらこいつらに任せてみよう、そう考える者も出てくるだろう。あるいは真似して自分たちでもドラゴンの里親探しやってみよう、なんてのも出てくるかもしれない。そうなれば勝ちだ。それは将来ドラゴンの新たな流通ルートを生み出すことになる。だがその新しいルートが生まれて来るのを、ヴリトラは決して認めない。必ずその前に潰そうとするはずだ。狙い目はそこにある。という訳だから、まあ頑張ってくれたまえ」

 僕はひとつ、伸びをした。

「なんとか頑張ってみます。八大さんはこれからどうするんですか」

「弁天堂にガーゴイルを持って行く。何がわかるかは知らんが、まあ調べるだけ調べてみるさ」

「わかりました、こっちはこっちでやっておきます」

「うむ、頼む」

 あの三体のガーゴイルを弁天堂までどうやって運ぶのだろう、と一瞬思ったが、今更である。今はとりあえず、地味な作業を続けよう。外から雷の音が聞こえた。


 首を捻るとバキバキと音がする夕方。シバシバする目を押さえながら僕はソファに横になった。なんとか動画の抜き出しと新聞のスキャンは終わった。あとはこれをまとめるだけだが、さて、どうやってまとめればいいんだろう。横目でモニタを見る。ココアは退屈そうに欠伸をしているが、これといって変化はないようだ。ふわぁ、欠伸がうつった。八大さんはまだ帰らない。このまま少し眠っても怒られないかな。いや、眠るのは拙いか。けど屋根を閉めるにはまだ時間があるしな。本格的に眠っちゃうとアレだけど、しばらく目を閉じて横になってるだけならいいだろう。熟睡したりしなければ。

「もう眠ってますけどね」

 聞き慣れた子供の声だ。顔を持ち上げると、膝の上に迦楼羅がちょこんと止まっていた。

「あー、また夢と現の狭間かあ」

 僕は思わず顔を押さえた。

「ご不満ですか」

「だって気が休まらないよ」

「そうですか」

「ん?」

 どうしたのだろう、迦楼羅に元気が無い。

「別に病気という訳ではありませんよ」

「そう、ならいいけど」

「お聞きになったのでしょう」

「え、何を」

「ご自分の本性について。私との関係についても」

「ああ、その事か」

「どう思われました」

「どうって言われてもなあ」

 自分が神様であることなど、未だに信じられない。実感がまるで湧かない。そもそも神様らしい事は何もできないのだ、信じようがない。

「それは時が来ればおわかり頂けるかと」

「八大さんと同じ様な事言うんだね」

 迦楼羅はあからさまにムッとした。

「て言うか、さっきから何でへりくだってるの、気持ち悪いよ」

 今度はポカンとした顔だ。なんて表情豊かな鳥なのだろう。

「お怒りではないのですか」

「僕が怒る? 何で?」

「あなたがご自分の事にお気づきでないのを良い事に、あれだけの無礼を働いた私をお許し頂けるのですか」

 無礼だと思うんならやらなきゃいいじゃん、て思うのだが、まあ実際腹は立ってないし、許すも許さないも無いよなあ。

「あなたという方は……本当に変わりませんね」

「それも八大さんに言われた」

「んまっ」

 またプンスカ怒り出した。わかり易い。

「あ、そうだ。せっかくだから迦楼羅に聞いてもいいかな」

「なんですか」

 まだプンプンしている。

「迦楼羅から見てヴリトラってどんな奴なの」

 ガーン。顔から擬音が飛び出している。

「な、何故ヴリトラの事なんか」

「いや、どうやら目を付けられてるみたいで」

 ガガーン。迦楼羅は物凄い勢いで憔悴して行った。

「わわわ私が変な気を回して巡回を休んでいる間に、そそそそんな事に」

「あ、いや、そんなに落ち込まなくても」

「は! そうだ帝釈天、ヴリトラの事なら帝釈天に相談しましょう」

「その帝釈天から忠告されたんだけど」

「あの馬鹿、何てことを!」

 またそういう事を言う。

「それより何より和修吉! 和修吉は何をしているのですか。あ奴が付いていながら、あなた様の身を危険に晒すなどとは不甲斐ない! 嗚呼嘆かわしい! あんな龍などにほんの一瞬とはいえ、あなた様の身を任せた私が愚かでした」

「お前が愚かという点については、全く反論の余地が無い」

 いつの間にか天井は消え、頭上には夕焼け空が広がっていた。その真ん中に、どでっ、と浮かぶ巨大な青龍。

「和修吉、よくもおめおめと我が前に姿を現せたものですね」

「奇遇だな迦楼羅、我もそう言おうと思っていたところだ」

「あのー」

「よりにもよってヴリトラに目を付けられるとは、どういう事ですか」

「どうもこうも、そもそものきっかけはお前だ」

「お取込み中すみませんがー」

「またああ言えばこう言う、何でも誰かの責任にしておけば良いと思っているのですね」

「お前が彼をアフリカになぞ連れて行かなければ、起きなかった事だと言っている」

「ませんがー」

「うるさい!」

 二人同時に怒られた。息ぴったりじゃないか。

「なんですか、一体」

 迦楼羅は気まずい顔で言った。

「いやあの、『わしゅきつ』って何だろう、って思いまして」

「我のこの国での呼び名だ」

 少し面倒臭そうに青龍は答えた。

「八大さんはアナンタ竜王じゃなかったんですか」

「それはインドでの呼び名だ。我はインドではアナンタであり、シェーシャであり、ヴァースキでもあった。そのヴァースキが仏教と共に漢に伝わり『和修吉』となり、その後この国に伝わって『わしゅきつ』となったのだ」

「へえ、名前いっぱいあるんですね」

「て言うかね」

 夕焼け空は消え、天井が復活した。事務所のドアの前に、八大さんが立っていた。

「キミも少しは空気と言うのを読んだらどうかね」

「八大さんにだけは言われたくありません」

 あれ、何時の間にか膝の上の迦楼羅が居なくなっている。という事は。

「今これ、現実ですか」

「そうだよ、おはよう」


 弁天堂で解剖した結果、ガーゴイルはやはり脳に機械を埋め込まれていた。それぞれから米粒大の物が三つずつ見つかったという。

「一応貰ってきたんだがね」

 八大さんはスラックスのポケットから小さな薬瓶を取り出すと、天井の照明にかざしてみた。成る程、中に小さな粒状の物が幾つか入っている。

「機械にはそう弱くないつもりだったのだが、さすがにここまで専門的な物になると私も先生も何がどうなっているのやらさっぱりわからない。自分が急に老人になったような気がするよ。キミはどうだい」

「僕はパソコンの組み立てもやった事無いですからね、わかる訳がないです」

「そうだろうねえ、そんな顔してるよ」

「どんな顔ですか」

「キミの知り合いに電子工学の専門家とか居ないものかね」

「八大さんの知り合いには居ないんですか」

「居たらキミなんかに聞かないよ」

「僕の知り合いにも居ませんよ」

「だろうねえ、そんな顔だ」

「だから、どんな顔なんですか。ていうか、それなら萩原さんに聞いてみたら良いじゃないですか」

「……ん、萩原さん?」

「萩原さんなら電子工学の専門家とか、クライアントに抱えてるかもしれませんよ」

「そうか、萩原さんという手があったか」

「え、もしかして思いつかなかったんですか」

「キミ、今の私の気分が解るかね」

「いえ全然」

「数学のテストの答えを猿に教えられた気分だよ。不愉快と言ってもいい」

「よくもまあそんな酷い言い様が思いつきますね」

「いいんだよ、どうせキミは怒らんのだから」

「いや、僕だって怒るときには怒りますよ」

「それは初耳だ。今度暇なときに拝見しよう」

「人の感情で暇潰ししないでください」

 あっはっはっは。八大さんは小馬鹿にしたように笑うと、コーヒーを淹れた。

「それはともかく、キミの方の仕事は終わったのかね」

「はあ、動画の抜き出しと写真のスキャンは終わりました」

「そうか、じゃあ後はまとめるだけだな」

「それはそうなんですけど、どうやってまとめるんですか、これ」

「どうもこうも、好きにまとめたまえよ」

「好きにと言われましても、やった事が無いんで見当が付かないんです」

「なんだ、使えんなあキミは」

「すみません。で、どうまとめたらいいでしょうか」

「私だってやった事ないからわからんよ」

 何かぶつけてやる物は無いかなあ、と周囲を見渡したが何も無かった。座布団くらいは置いておくべきだろう。今度買って来よう。

「とにかく少々金や時間がかかっても構わないのだ、何とかできんかね」

 そのとき、僕の脳裏に旧友の顔が浮かんだ。

「実は高校の同級生が映像教材を作ってる会社に居るんですが」

「よし、頼め!」

 鶴の一声。僕は手帳を開いて長尾守の電話番号を探した。


 少々時間がかかっても構わない、と言われたとはいえ、そんなに余裕があるわけではないのはわかっていた。何せ一週間後には次のお客様の予定が入っているのである。それまでにココアを里親に引き渡さなければならない。しかし里親は誰でも良い訳では無い。可能な限り厳密な審査が必要だ。それはココアの為であることはもちろん、当宿の信用の問題にもなるからだ。等々考えると、動画の作成に使える時間は一日二日が限界である。相当に無茶な依頼だとは思ったのだが、長尾は快く引き受けてくれた。有難い、恩に着る。

 更に萩原さんも、ガーゴイルの脳から出てきた機械の件を引き受けてくれた。詳細は個人情報なので話せないが、クライアントに電子工学に詳しい人がいるとのこと。これまた有難い。

 長尾にデータを渡し、萩原さんに機械を渡しで、事務所を消灯したのは夜十時過ぎになってしまった。

「これで一段落、ですかね」

「まあこの二件に関しては、とりあえず待つしかないな」

「次は何をやるんです?」

「やるというか、一つ悩ましい問題を考えねばならんだろう」

「と言うと」

「この先新しい飼い主の元で暮らさなければならない、もう前の家には戻れない、という事をココアに説明する必要がある」

「あ……」

 僕は絶句した。ココアの事を忘れていた訳では無い。いや、忙しく慌ただしい中だからこそ、常に気にかけていた。餌や水、糞の様子、屋根の開け閉め、その他諸々いつもより気を遣っていたつもりだった。だが僕は一番大事な事を見落としていた。それとも無意識に目を逸らしていたのだろうか。

 ドラゴンがペットとして犬や猫など他の動物と最も違う点、それは人間の言葉が通じるという事である。勿論犬や猫でも、ある程度の言葉の意味は理解する。だが言葉で説得され、納得するかと言えばそうではない。しかしドラゴンは言葉が言葉として通じてしまう。言い換えれば言葉で説得できなければ、納得してくれない。

 赤ん坊の頃を別とすれば、勝手に新しい飼い主に手渡して、とにかくそのまま環境に慣れさせるという、時間を切り札に使うやり方が使えない。ドラゴンは納得できないものは受け入れてくれないのだ。何が何でも抵抗する。犬や猫でもそうなれば大変なのに、ココアは十メートルの巨体で更に火まで吹く。力で抑え込もうとすれば軍隊が必要だ。そして仮に軍隊を相手にしたとしても、誇り高いドラゴンの心は決して折れないだろう。つまりは力尽くで言う事を聞かせられる相手ではないのである。

 だからこそ、言葉による説得が必要になる。飼い主が変わるというのは家族が変わるという事であり、一週間やそこいら預かるというのとは訳が違う。ココアにとって一生の問題なのだ。それを僕らは本人の居ないところで勝手に決めようとしている。なおさら説明が必要なはずだ。

「取り敢えず今日はもう遅い。話すとすれば明日以降だ。私も考えるが、キミも考えておいてくれたまえ」

 八大さんはそう言い残すと、家に帰って行った。


 夕方少し寝てしまったからだろうか、当直室の布団に入ってもなかなか眠くならなかった。ココアの事が頭から離れない。新しい飼い主の元に行くことを、どう説明すれば納得してくれるだろう、と悩んだり、どうしてこんな大事な事を忘れていたのだろう、と自責の念に駆られたり。そうこうしている内に時計の短針は十二の位置をかなり過ぎ、起きるまであと三時間、という頃になってようやく瞼が重くなってきた。


 僕は十歳

 空は赤い

 朝なのか夕方なのか

 血の様に赤い

 僕は走る

 川の土手を走る

 懸命に走る

 その走る先には

 居る

 大きな背中が

 太い腕が

 確かにそこに居る

 だが遠ざかる

 走っても走っても

 手を伸ばしても

 届かない

 こちらを振り返る

 僕を見た

 顔は逆光で見えない

 でも笑っている

 きっと笑っているはずだ

 あと少し

 あと一歩

 伸ばした手が

 伸ばした指が

 あともうほんの少しで届く

 ほんの少しで

 届くのに

 何故背を向けるの

 何故行ってしまうの

 行かないで

 そっちには行かないで

 お願い

 僕を置いて行かないで!


 アラーム音がけたたましく響く。僕は目覚ましを止め、一つ深く息をついた。夢を見るなんて、いつ以来だろう。ここの所、夢と現の狭間にばかり出かけていたせいで、自分が夢を見られる事すら忘れていた。それがよりにもよって、一番思い出したくない事を思い出してしまうとは。でもまあ、好意的に考えるのなら、今の自分に必要な感情を思い出したと言えなくもない。今ならばココアの気持ちがわかる。きっとわかるはずだ。僕は顔の涙を拭い、立ち上がった。さあ、屋根を開けに行こう。


 屋根の開閉スイッチは客室の外、入り口隣の分電盤の中にある。分電盤を開き、右上の下がっているレバーを上げると、重い作動音を上げながら屋根がゆっくりと回転する。開口部から零れ落ちてくる朝の光。入り口扉には覗き窓があるので、普段の屋根開け作業は扉を閉じたまま行うのだが、今日は扉を開けた。勿論防火服も着込んでいる。丘の頂では、何か異変を感じたのか、ココアが長い首を高く立ててこちらを窺っていた。

「おっはよー」

 努めて明るく振る舞おうとしたのだが、少し空回っている気がする。ココアは姿勢を崩さず、丘を登る僕をじっと見ていた。

「どっこいしょ、と」

 ただ丘を上まで登っただけなのに、僕はヘトヘトになってしまった。普段はこんな事ないのだが。防火服がいつもより重く感じる。肩で息をしている僕を、ココアは冷たい視線で見つめた。

「えーっと、あの、今日はね、ちょっとココアに話したい事があるんだけど」

ココアは動かない。

「ココアはその、山田さんの事は何て呼んでるのかな。オトウサン?」

 その時、ココアの目元が緩んだ。それは優し気な眼差しだった。

「そうか、君もオトウサンって呼ぶんだね」

 それは偶然なのか、それともこの国で暮らすドラゴンに見られる傾向の一つなのか、気にはなったが今はどうでも良い問題だ。

「……オトウサンが今、何処に居るか知ってる?」

 ココアの目が再び冷たく厳しくなる。

「僕のお父さんはね、もう居ないんだ、何処にも」

 空気が沈黙する。ココアは戸惑っているようだった。

「僕が子供の頃に、居なくなってしまったんだ。何処にもね」

 ココアの視線から厳しさが消えた。優しい子だ。

「僕はココアと同じだ」

 ココアは目を落とした。やはり、理解しているのか。

「知っているんだね、オトウサンがもう居ない事を」

 ココアは俯き、鼻をクウンと鳴らせた。

「でもね、オトウサンが居なくなっても、ココアはこれからも暮らして行かなきゃいけない」

 沈黙。ココアはじっと聞き入っているようだ。

「その為にはね、ココアはこれから新しいお家で暮らさなきゃいけないんだ」

 沈黙。

「新しいお家で、新しいオトウサンと暮らすんだ」

 沈黙。

「それが君の幸せの為なんだ。オトウサンもそれを願って」

 業火。

「え」

 後退った僕にココアは火炎の第二撃を喰らわせた。防火服が無ければ僕は一瞬で肺の中まで黒焦げになっていただろう。炎の圧力に負けて丘から転げ落ちる僕を、ココアは唸りを上げながら追ってきた。牙を剥き、鎌首をもたげる。喰われる、僕がそう思った瞬間、ココアの身体は崩れ落ちる様に倒れ込んだ。

 横たわるココアを見つめながら、僕は立ち上がる事ができなかった。腰が抜けたのだ。

「なに、心配は要らない。眠らせただけだ」

 振り返るとそこには。

「は……ちだいさん?」

 ぱこーん。僕の頭頂部が音を立てた。そして八大さんはそのプラスチックのメガホンを口に当てると、「馬鹿かキミは!」と一言放った。

「とりあえず『向こう』へ行って来る。キミはしばらくそのままへたり込んでいたまえ」

 八大さんはそう言うと、不意に押し黙った。目の焦点が合っていない。立ったまま眠っているかのようだった。いや、眠っているのだろう。おそらく向こうの世界へ、夢と現の狭間に行っているのだ。

 そのまま数秒が経ち――数分に感じられた――八大さんは戻ってきた。同時に、ココアも気付いた。そして向こうの世界で何をされたのだろうか、僕と八大さんに明らかな恐怖の眼差しを向けると、淵へとズブズブ潜って行った。

「やれやれ、理解の速い子で助かるよ、全く」

 八大さんは一つ溜息をつくと、へたり込む僕に向かって手を差し出した。

「立てるかね」

「……いえ、まだ立てそうにないです」

「そうか。ま、何にせよ貴重な体験だ」

 差し出した手を戻すと八大さんは片眉を上げた。

「で、何故こんな事をした」

「すみません」

「謝罪をしろとは言っていない」

「ココアの気持ちが」

「ふむ」

「僕ならココアの気持ちが理解できるはずだって思ったんです」

「なるほどな。そういうのを諸々含めて一言で表すと何と言うか知ってるかい」

「いえ」

「思い上がりと言うんだ」

 何も言えなかった。自分には言い返す資格すらないとしか思えなかった。

「何でもかんでも誰でも彼でも善意や優しさで助かるのなら苦労はしない。まして相手はドラゴンだ。そうそう人間の都合良く動いてくれる存在じゃない。キミに言わなかったかな、ドラゴンはあくまでドラゴンであって、決して天使じゃないんだよ」

 理解していたつもりだった。しかし今となっては、つもりでしか無かったと言われても弁明の余地はない。

「だがまあ取り敢えずは、新しい飼い主の元で暮らす事を理解させたよ。多少強引な手は使ったがね」

 どのくらい強引だったのだろう。文字通り雷が落ちたのではなかろうか。

「さて、済んだことはもういいだろう、キミもそろそろ立ち上がりたまえ。今日も一日様々な事が起きるはずだ、へたり込んでばかりいられても困るからね。ココアの事もある、ヴリトラの事もある、色々あるんだ、気合を入れたまえ」

 まだ腰から下にはあまり力が入らないのだが、なんとか立ち上がった。今日も色々ある、その通りだ。まずはココアの餌を入れよう。それから自分の朝食だ。それから先は……なる様になるさ。

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