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『奇跡のコース』の信仰3.0

スピリチュアル界で有名なテキストに、『奇跡のコース』というのがある。ニューヨークのコロンビア大学の心理学教授だったヘレン・シャックマンという人が1965年に突然啓示を受けて書き始め、同僚の心理学教授の支援を得て7年間をかけて完成させた、1000ページを超える3部構成の大冊のテキストブック。

わたしは2年ほど前に存在を知ったのだけど、このテキストの、宗教を目指さないオープンさに感動している。

シャックマンさんという人は、ある日突然「キリストと思われる存在」の声を聞いてこのテキストの筆記を始めるまでは、アカデミックな世界で野心を持ち成功していた心理学者であり、ひとかどの学者として当然のように無神論者だったという。

現在では22か国語に訳されていて、勉強会やセミナーも数多く開催されているが、シャックマンさん本人が「カルトの土台となるような意図はしていなかった」というように、宗教の形態は一切とらず、一人ひとりがテキストから直接学ぶ、完全に独学式のテキストであるところが特徴だ。

内容はキリスト教にもとづいているが、従来の教会の教えとはかなり異なる。

いってみれば聖書解釈の脱構築を提供するテキストなのだ。

もっとも大きな違いは、罪、罪悪感、怖れを「幻想」さらには「偶像」としているところかもしれない。

ローマ時代からプロテスタント教会まで、キリスト教会の多くは、人間は罪深い者でありキリストを通した悔い改めによってのみ救われると教え、強調してきたが、この「奇跡のコース」は、人はもとより罪のない存在としてつくられていて、罪悪感と怖れは単に夢、幻想、「偶像」であることに目覚めることにより、「ゆるし」を得て神の安らぎの中に生きることができる、と説く。

「私は神の慈悲心と安らぎを発見するために犠牲を払うことを求められてはいません」(『奇跡のコース』第2巻 レッスン343   大内博訳、ナチュラルスピリット社刊)

キリスト教には十字架にかかったイエスに倣い、犠牲を差し出すことを善きこととする考え方がある。極端な例では中世の鞭打ち苦行者のように。しかしこの「コース」は、そんなものは神が望まれることではなく、むしろ犠牲という考え方には自らと世界を攻撃する暴力的な思いがあるという。救いはすでに目の前に差し出されていて、怖れという幻想を捨ててそれを受け取るだけでよいのだと。

「罪悪感はいかなる形であれ、苦痛の唯一の原因」だとするこのコースは、「幻想」、特に「怖れ」と「罪悪感」からの脱却を強調する。自らの主観のなかにすべての地獄があり、それを滅却した果てに救いがあるとする考え方は、仏教の教えにも通じる。

「果てしのない絶望の輪のように見えたものの中に希望と解放の道をひらくためにしなければならないことは、自分はこの世界の目的を知らないと決めることだけです」
(『奇跡のコース』第1巻 29章VII )

囚われている「攻撃」と「分離」が夢であると知ると、すべての人の生得の権利である「純粋な喜びの思い、安らぎの思い、無限の解放の思い」がよみがえる。「コース」は、それを自分自身、そして「兄弟」である他者にむけて差し出すのが、学習者の使命である、とも教える。

「自分自身のために完璧にあがないを受け容れた人は、この世界を癒やすことができる」と説き、ゆるしは、他者に与えることによって自らにも得られる、ということが強調される。

キリスト教の教えの中心にあるイエス・キリストの復活についても、この「すべてが一つである」という認識のもとに説かれている。

「彼は生命を受け容れたがゆえに、死を克服しました。彼は自分自身を神が創造されたままに認識し、そうすることにおいてすべての生きとし生けるものは彼の一部であると認識したのです」
(奇跡のコース』第1巻 教師のためのマニュアル23章、同上)

もちろん伝統的なキリスト教会の多くからは冷たく扱われているようだけれど、私は、これは本当に画期的なテキストだと思う。

世界宗教となったキリスト教が「信仰2.0」だとすれば、これは「信仰3.0」といってもいいんじゃないかとひそかに思っている。

このテキストが説く個人の精神の解放、世界への信頼、他者の尊重は、たぶん、宗教が個人に提供できる最善のエッセンスだ。それをこのような「独学」用の形でまとめた現代的なテキストは、信仰についての対話をひらくのに役立つはずだ。

このテキストが1960年代のニューヨークという時代と場所に現れたことも、現在もゆっくりとフォロワーを集めていることも興味深いし、大きな可能性を持っていると思う。


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