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信じる者と刺客の対話

スピリチュアリティとか信仰の話が、もうちょっとふつうに、株式市場や心理学や年金の話と同じようにされるようになってもいいのにな、と思う。

スピリチュアリティというのは、うまい訳語がないのだけれど、自分とセカイのありかたをどう考えるか、精神をどこに置くか、といった方面の話題だ。

神様や魂の存在を信じるかどうか、という話でもある。

「信じる」側と「信じない」側が出会うと、もう宿命的に、どちらかが正しくてどちらかが間違っている、はっきり白黒つけましょう、という果し合いのような議論がはじまってしまいがちだ。

でももうそんなケンカは人類にとって何の役にも立たないのがこれまでの経過によってわかってきたのだし、もうこのへんで敵意を捨てて実を取ることはできないものなのか。

20世紀に文明社会の表舞台に立ってきたエリートの人たちは、宗教をすっかり時代遅れのものとして扱ってきたけれど、21世紀のいま、宗教はいまだに人類社会のかなりの部分を右往左往させている。

世界の95パーセントの人々は何かしらのかたちで神を信じているという。

宗教が扱ってきた問題は人間にとってちっとも不要にもなっていない。むしろ、AIやグローバリゼーションを目の前にして、ますます重要になってきているのだと思う。

目にみえないものを信じること、個人を超えた崇高な存在につながることへの欲求は、人の奥深いところに刻まれている。それをプリミティブだと退ける人は、自分が何を否定しているのかを知らないのだ。

たしかに宗教は困った事態を歴史上たくさん引き起こしてきたし、スピリチュアル界では人の弱みにつけこむ商売があまりにもたくさん横行してきた。それを警戒する気持ちもわかる。でも、スピリチュアルの領域には人間の最高の経験が含まれているのも事実だし、それを実社会にもっとよい形で反映させる方法がきっとあるはずなのに違いない。

英国のチェス王者で哲学者のジョナサン・ロウソンという人が、社会はスピリチュアルについて真剣に語る言葉を持つべきだ、と言っている。わたしはこれにとても共感する。

2015年の「Why our politics needs to be more spiritual」という記事で、ロウソンさんは、宗教やスピリチュアルについての英国の人たちの態度を3つに分類している。

1つ目は「スピリチュアル・スウィンガーズ(Spiritual swingers)」つまり、スピっぽい話ならなんでも歓迎してしまう人たち。

2つ目は「宗教的外交官たち(Religious diplomats)」。既製宗教のスポークスマン的立場で、宗教の枠組みの中から様子を伺う人たち。

そして3つ目が「知の刺客(Intellectual assassins)」。スピリチュアル的なものに嫌悪に近い違和感を感じるタイプで、口をひらく前から論破を目論んでいる。

日本には「宗教的外交官」はとても少ないけれど、「スウィンガーズ」と「刺客」はたくさんいる。

これまでの歴史の中では宗教の枠組みの中だけでしか扱われなかった、崇高さや神聖性といった経験について、社会はもっと意識を向けるべきだし、宗教家も「知の刺客」たちも引き込めるような、知的で幅の広いインクルーシブな対話が必要だ、とロウソンさんは主張している。

神学論争ではなく、スピリチュアリティを人間社会が共有すべきニーズ/価値として語ろうということなのだ。

これは、現状をみてもまったく正しいと思う。

信仰やスピリチュアルについての対話で膠着状態を作り出すのは、自分たちが信じてきた物語だけが正しいのだと主張する宗教側の人びとの側だけではなくて、精神世界の経験について語るボキャブラリーを持たず、すこしでも「トンデモ」だと感じると瞬速で撃ち落とそうとする「刺客」たちの側でもある。

それが正しいか正しくないかの論争ではなく、信仰という経験が社会と個人にとってどうはたらいているのか、その価値を考え、それを役に立てる、つまり個人と社会の幸福のために使うこと。そちらのほうがずっと重要だし火急の問題なのにな、と思う。

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