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言葉と思考の関係のこと(その1)コトダマと相対性

「万物は言葉によって成る」のだろうか。

「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」
(『ヨハネによる福音書』新共同訳聖書より)

<言葉にはなにか根源的な力がある>という考え方は、昔からいろんな文化にみられる。

日本にも「言霊(コトダマ)」ということばがある。たぶん、福音書の冒頭でヨハネが言ってるのと似た思想といっていいのだと思う。

言霊のことはひとまずおいておく。

神秘主義や呪術的な考え方ではなくても、言語にはそれを使う人の精神や思考にはたらく力がある、と漠然と感じる人は多いのではないかと思う。

しかし、この前紹介したスティーブン・ピンカーは、この「言語決定説」をバッサリと否定している。

どちらが本当なのか。

わたしは、これは単に、モノサシの目盛りが違うから議論がかみあっていないんじゃないかという気がしている。

ハーバード大学の教授にむかって一介のおばちゃんがモノ言うのも僭越きわまりありませんが、ちょっと今回はピンカー先生に反論してみたいと思います。

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サピア=ウォーフの仮説とその時代

言語がその言葉を使う人の世界観の形成にかかわる、という立場で有名なのが「サピア=ウォーフの仮説」。

人類学&言語学者エドワード・サピアは1884年生まれ、1939年没。文化や人種に「優劣」はないと提唱して、20世紀人類学の基礎を築いたフランツ・ボアズに学び、ネイティブ・アメリカンの言語を研究した。

エール大学でサピアの講義をきいた教え子の中に、ベンジャミン・リー・ウォーフ(1897年生まれ、1941年没)という人がいた。

ウォーフは火災保険会社調査員でアマチュア言語研究者でもあり、やはりネイティブ・アメリカンの言語を研究した。

このサピアとウォーフがそれぞれ発表したのが、使う言語はその人の思考様式に影響を及ぼすという「言語相対性」の仮説。

この2人はどちらも第2次大戦に米国が参戦する前に亡くなっている。2人のこの研究が1920年代から30年代にかけて行われたというのは意義深い。それは、まだ「特定の人種は劣った種であり、その文化や言語も劣っている」という19世紀以来の偏見が深く社会に根づいていた時代だった。

たとえばナチスは進化論を勝手に拡大解釈したエセ科学をもとにゲルマン民族の優秀さとユダヤ人その他の劣性を証明しようとしたし、米国南部の白人支配階級の人たちは、黒人が生まれつき劣った知能を持ち、したがってその文化も言語も原始的で劣ったものであると信じていた。

非工業国の人々が知能も文化も劣っているという、帝国主義にはまことに都合のよい信念に対してボアズの人類学は異論をはさみ、「原始的」な社会の人びとも、工業国に劣らず複雑で有効な言語、知識、文化体系を持つと主張した。さらに、文化はその中に生きる人間の思考を規定する、と論じた。

それを受け継いだサピアとウォーフは、さらに一歩論を進めて、人は言語によって世界を理解し、切り分けるのだと論じた。

サピア=ウォーフの仮説を説明する有名な例のなかには、以下の4つがある。

1) 色の名前の数は言語によって違う。光のスペクトルには物理的に切れめがあるわけではないので、人は言語の色名によってスペクトルを切り分けて認識しているのではないか。
2) ホピ・インディアンの時間の観念は独特である。時間や空間といった観念も、私たちの言語と文化によって形作られるのではないか。
3) イヌイットの言葉には、雪を意味する単語が何十もある。これは言語による世界観の違いを示す例ではないか。
4) ドラム缶事件:「empty(空)」とラベルが貼られたドラム缶に火のついたタバコを投げ入れて爆発させた作業員がいた。実際にはドラム缶の中には気化したガソリンが充満していた。この作業員は「empty(空)」という言葉によって現実を線引きしていたために、そんなことをしてしまったのではないか。

この4つの例を、ピンカーは著書『言語を生み出す本能』ですべてバッサリと切り捨てている。
1) 人の視覚器官の構造は同じ。64色のクレヨンなら文化により色名に差が出るが、8色入りなら色の種類はほぼ一致する。言語が網膜の神経節細胞をつなぎなおすはずはなく、言語によって色の見え方が変わるということはない。
2) ホピ・インディアンの時間の観念については、その後のフィールドワークで、西洋人とごく似たものであることが確認され、ウォーフが言うような「過去、未来、継続、持続などを直接に指す語がない」などという特異性はないことが確認されている。
3) イヌイットに雪の語彙がたくさんあるというのも都市伝説のようなもので、せいぜい一ダースしかないことがわかった。単に「伝説的な蛮人」の言葉だから興味を惹いたのではないか。
4) この作業員がタバコをドラム缶の中に投げたのは、言葉の線引きにしたがって現実を把握していたためではなく、単にガソリンが目に見えないものだったからではないのか。

また、対照実験の成果はほとんどないとして、ピンカーは「言語が話し手の思考を大幅に規定する、という説の科学的根拠は存在しない」と言い切っている。

わたしはこのピンカーの論は、違うスケールのものを無理やりに同じ次元に放り込んで語ろうとしているとしか思えないのだ。

まずはサピア=ウォーフの仮説をもう少し詳しく見てみたい。

(つづく)


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