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地霊に恋する

『東京の地霊』というタイトルをきいて、『ムー』系の話だと思った人はいないだろうか。

わたしも思った。

でも著者の鈴木博之さんは工学博士で、東京大学名誉教授だった建築学史家。(2014年に亡くなっている)

この本は、東京にある13か所の土地や建物について、その場所とそれを所有していた人々、そこで生活していた人々が江戸期から明治・大正・昭和をとおして経験してきたドラマを掘り下げている。すんごく面白い。

「地霊」というのは、ラテン語の「ゲニウス・ロキ」という語に対して鈴木博士が編み出した訳語である。

18世紀に注目された概念だという「ゲニウス・ロキ」を鈴木博士は最初「土地の精霊」と訳していたそうだが、のちに「地霊」と改めた。とても素敵な訳語だとおもう。地霊とは鎮守様のような意思をもつ神様や霊ではなくて、「姿形なくどこかに漂っている精気のごときもの」だという。

土地の息吹、というようなものなのだろう。

「ゲニウス・ロキとは、結局のところある土地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想生、あるいは土地がもつ可能性といった概念になる。
……
地霊(ゲニウス・ロキ)というう言葉のなかに含まれるのは、単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれているということである。……
……
そもそも地霊というものは、目に見えない潜在的構造を解読しようとする先鋭的な概念なのである。それは、土地を一つのテクストと見る考え方だと言ってよいのかもしれない。」

『東京の地霊』鈴木博之 ちくま学芸文庫 11p

目に見えない潜在的構造。

土地をテクストとして読み解く考えかた。

NHKの『ブラタモリ』のおもしろさにも通じるような。

たとえば本の最初に出てくる六本木1丁目の土地は、皇女和宮と東久邇宮の邸宅があった場所で、そこに縁のあった人々の歴史が「降り積む雪のように覆いかぶさっている」と、鈴木博士は語っている。

「幸せな土地、薄幸な土地、売れる土地、売れない土地というのはあるものである。その奥にひそむものを私は地霊だと考えたいのである」

同書、29p

うん、ちょっと『ムー』的になってきた。

街というのは、たしかに、たんなる建物のあつまりじゃない。

そこに住む人や、心を寄せる人たちの意識のあつまりなのだ。

そして、その前の世代、前の前の世代、さらにさかのぼって、最初にその場所に住み着いた人から延々とつづく歴史が、なにかの形で残っている。鈴木博士の言葉を借りると「降り積もっている」。

一人ひとりの物語はとうに忘れられてしまっても、人の住む土地にはどこにでも、その残り香みたいなものが無数に散りばめられている。大きな物語は伝説になったり、沢山の人の働きが地形の中に埋もれていたり、熱いドラマの一片が小さな祠の中に残っていたり。

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地霊(ゲニウス・ロキ)というのは、きっと、土地そのものと、そこに住んだたくさんの人の記憶と、今そこにいる人たちの間に通いあうなにか、なのだと思う。

わたしは異国に住み始めて20年以上たってしまったけれど、20代なかばまでを過ごした東京の、あちこちの街角がときどきものすごく懐かしくなる。具体的にあそこのコロッケが食べたいとかカレーが食べたいとかいうのももちろんあるが、それはよく考えるとおまけにすぎない。

家族や友人たちに会いたい気持ちとは別に、あの街角に、あの坂道に、ごちゃごちゃした小道に、ただ行きたくてたまらなくなる気持ち。

東京だけではなくて、オアフ島のジャングル、京都のなんでもない裏通り、ニューヨークの書店、紀伊半島の山の中の小さな神社、ほんの数日滞在しただけのイタリアの街などが、説明がつかないほど恋しくなる。そういう場所がたくさんある。

その場所に立ってそこの空気を吸っているだけで、なにか大きな豊かなものを共有しているような気持ちになれる場所。

街や特定の場所が強烈に懐かしくなるというのは、そこの地霊に恋をしているということなのだ、きっと。



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