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「思考しない」ってどういうことですか


スピリチュアル界隈でよく言われる「思考を入れない」「思考しない」というのが、どうも気になるのです。

スピ界では、なにかを会得したり情報を得たり、あるいは判断したり行動を決める際に「思考でなく」「思考を入れずに」する、つまり感覚ですることが良しとされることが多い。

「思考」にとらわれていると、ほかの方法、つまり感覚的に得るべき情報が得られず、結果、判断を誤ったり、得るべき理解に到達できない、という意味で使われている。

言いたいことはわかる。でもその「思考」という言葉、ちょっと大雑把すぎるんじゃないか。

ブッダは

「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ」
ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫、中村元)

と語ったという。
スピ界でいわれる<思考>とは、たぶん、このブッダのいった<迷わせる不当な思惟>をさしているのだろうと思う。

でも、「思考」とは、言葉そのものでもある。

思考という機能がなければ、わたしたちは言葉をしゃべれなくなり、人としての基盤を失ってしまう。

思考は、脳のはたらきであり、現象であり、わたしたちをつなげるものであり、データ処理機能であり、世界を説明するためのツールだ。

だからこそ、「人を迷わせるもの」でもあるわけだけれど。

人間の歴史は思索の上にある。その上にしか成り立たない。

歴史をすべて幻想だとする立場をとるにしても、この世で生きている限り、現実とのあいだの落とし前をつけていかねばならない。

つまり、人間としてふつうに生きていくということには、どの瞬間にももれなく思考がついてくる。

だから、簡単にひとくくりに「思考」を否定するのはあまりに雑にすぎる、と思うのだ。

わたしは言葉にこだわりすぎなのかもしれない。

でも、思考とはなにかということをもうちょっと精細に「考える」ことは、スピリチュアルな人にとっても、いやスピリチュアルに関心をもつ人にこそ、とても有益なことのはずだと思う。


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