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知ることをシコウと言う勿れ


世の中、知らんでもよい事多くないですか?

でも、知らんでもよいかどうかは知ってみないと判断がつかない。

そのうえ枕詞は「自分にとって」。既製の尺度が無いということは、いよいよ本当に「知ってみないことには知る必要の有無を判断できない」という矛盾が濃すぎる。


ところで、とにかく知識を増やすことをよしとする学習スタイルがありますね。

それは段階としては必要だと思う。人の一生という時間軸において、ね。

時代の流れとしてこれをやっちゃうのはマズイ気がするなあ。


知るということは、考えるための材料たる知識をストックする行為。

知識は材料にこそなれ、それだけで完結し得ないんじゃないかなー。

だから知るという行動を思考と混同すべきじゃないね。知った後からやっと思考が始まる。始まり始める。

こうやって思考をしなければ、知識はガラクタですよ。頭の倉庫に詰め込んで黴臭え感じになるのもったいないよなあ。

知る行為そのものを至高とするのは危ないしもったいない。


価値観は人それぞれだけど、そうは言っても思考するということは前提ですね。

どの知識をストックするか、そのストックをどう使うか。そこに価値観が現れる。

借り物ではない、せめて自分自身にだけは徹底的に腹落ちした価値観を持っている人。素敵だなと思います。

そこまでになるには身を削る過程があるかもな。

身を削って削ってそれでも残ったものが、本来の姿なんだろうと思うね。


素敵だなと思う相手にだって素敵じゃない側面はあるかもしれないけど。

だから何だという気持ち。そういうの、知らんでもよい事じゃないですか?

好きだなと思った相手のことは何でも知りたいなと思っていた頃があったけど、あの気持ちってなんなんだろうね。

相手も、自分をも追い込むよね。

ストックが増える快なのかもしれない。コレクター的気質の。

未知をクリアするという快なのかもしれない。ゲーマー的気質の。

さておき、自己の欲求であるのはたしからしい。自己の欲求を満たすために他者の犠牲を厭わないという部分がちょっといやかも。

知るということを嗜好にするのは傲慢横暴に感じるなあ。





っていう、超個人的なポリシーの話。

特定の誰かに向けた言葉でもなければ、不特定の誰かに向けたのでもない。


自己の価値観の確認です。

っていちいち言わないとなのがめんどいですねぇー。


またね。



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