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東京日誌

ふと目をやると、トラックの側面にオカマがひしめいていた。関心はありながらも、まだLGBTQの知識を深掘りしていない。私の目には、ミッツ・マングローブさんやナジャ・グランディーバさんのような類に映ったので、「ドラァグクイーン」だろうか。東京らしさを感じて、自分の顔がぱあっと明るくなるのがわかった。

以前、初めてホストの広告を見た際には、その音量と巨大さから圧倒された。ふうん、と記憶に残らない整ったご尊顔を見送って、胸の底に小さく恐れのような感情を見つけたのだった。

けたたましい広告トラックは地元でも時折見かけた。女性の性を売らせるアルバイト広告。大学生の頃に受け取ったティッシュ配りの広告にも挟み込まれていた。視野に入るごとに少し苦々しい気分になって、こういうものはひっそりとやってほしいものよと頭の中でぼやいていた。

オカマのトラックと遭遇したときには、ざらついた感情が生まれなかった。
きっと、「性を売らせる」のと「性を売る」というのは、似て非なるものだからだ。

現在の水商売は、過去の遊郭などとは違って「売らされている人」だけではない。そこには「自ら売っている人」が混在している。ホストクラブも、集客のために男性の性を自ら売ることも売らされることもあるのだろうし、一部女性客には性を売らされた金を元手に通っている様子も垣間見える。売り手にも買い手にも能動性が付された世界で浮かび上がる「使役の性労働」が私の心をざらつかせるのかもしれない。

実のところは知らないが、側から見るぶんにはドラァグクイーンやオカマバーなるものには、売り手にも買い手にも比較的使役が感じられない。結局は人間という同じ穴の狢だから、とどのつまりは個によるに尽きるのだろうけど。搾取せず搾取されないその姿勢が、安心して眺められるゆえんなのかもしれない。

小学校の同級生に、明らかにその界隈の人がいた。細かなカテゴライズすらない、ある意味その存在が自然と馴染んでいた時代。大して話した記憶もないのに、表情から振る舞いや声色までよく記憶に残っている。周囲の反応すらも。無意識に、その堂々たる孤高を貫く姿に目を奪われていたことを今になって認識する。ただただ見つめていた。自分が海のものとも山のものともつかない、その眼で。

あれから私たちなんか忘れ去って、きらびやかな世界で思い切り愛でられていると良い。

生きる糧